あさま山荘事件
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ヘリコプターやパトカーをかわしながら雪山の道なき道を進んだ連合赤軍は、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった[注釈 5]。なお、警戒中の警官らによって、夜間に山中を移動しているメンバーの懐中電灯の光や夜が明けて残されていた足跡が発見されたが、あまりにも奥深い場所であったことや足跡の周辺の雪が崩れていたことなどから(メンバーは先導者の足跡を踏んで移動することで、足跡から判別できる人数を偽装していた)、いずれも「下山中の猟師だろう」「前日見落とした古い足跡だ」と判断された。仮に両者がこの時点で接触して銃の撃ち合いになっていた場合、ライフルを持つ連合赤軍に対し警察は拳銃で野外の銃撃戦を挑まねばならず、大きな被害を出していたであろうとも言われる[14]

一方、都内にいた森と永田も、榛名山・迦葉山ベース跡地が発見されたことを知って、坂口たちと合流すべく妙義山ベースに向かうが、既にベースを捨てて脱出した坂口弘らと入れ違いになり、2月17日に山狩りをしていた警察官に見つかり抵抗の末逮捕された[注釈 6][15]

2月19日午前、山中でビバークした連合赤軍メンバーは、植垣ら4名を偵察を兼ねた食料などの買い出しに町へ派遣した。しかし、軽井沢駅の列車内で、2手に分かれていた植垣グループは職務質問を受けた。一方は手製爆弾や実弾を所持しているのを見つけられて銃刀法違反の現行犯で逮捕され、もう一方も咄嗟に住所として答えた長野市内の地名がデタラメであることを地元出身の警官に見破られ、逃走を試みたが逮捕される。この逮捕劇の発端は、長期間入浴していなかったため悪臭を放っていたメンバーらを駅売店の店員が不審に思い、駅の助役に通報したことであった[16][17]

こうして29名いた連合赤軍メンバーは、ここに至るまでに12名が山岳ベースで殺害され、4名が脱走、8名が逮捕された結果、事件発生直前には坂口弘坂東國男吉野雅邦加藤倫教・加藤倫教の弟(以降、「加藤弟」と表記)の5名を残すのみとなっていた。レイクニュータウン付近の雪洞で待機していた連合赤軍メンバーはラジオで4人の逮捕のニュースを知ると、自分たちが軽井沢にいることを悟るとともに警察の追跡を恐れて移動を開始した[18]。捜査陣も逮捕者らがレイクニュータウン方面から来たことを聞き込みで突き止めて捜査網を狭めた[19]
事件の経過(浅間山荘への籠城から制圧まで)
2月19日

雪洞を出た連合赤軍メンバーは間もなく自分たちが別荘地の外れにいることを知る。軽井沢レイクニュータウンは当時新しい別荘地で、連合赤軍の持っていた地図にはまだ記載されていなかった[14]

2月19日の正午ごろ、メンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人の「さつき山荘」に侵入し、台所などにあった食料を食べて休息したり、洗面や着替えをしたりしていたが、捜索中の長野県警察機動隊一個分隊(5人。レイクニュータウン近辺の別荘の捜査が行われていた[19])がこの建物を検索し、中に人がいることを察知すると、雨戸の外から外へ出てくるよう呼びかけた。坂口はこれに応答しないまま発砲、即座に機動隊側も拳銃を発砲してこれに応戦した後、吉野も参加して銃撃戦となった。加藤倫教が坂口に対し、警察官を包囲してパトカーを奪って逃走することを提案したが、坂口は何も答えなかったという[20]

15時10分ごろ、現場から犯人発見と発砲を受けている旨の緊急報が出され、軽井沢署の署長室にいた(署長は別の打ち合わせで不在)警備第二課長の北原薫明が居合わせたパトカーに飛び乗って現場に急行した(この時、北原はほぼ使ったことのないパトカーの無線機で「県下の無線は全部黙れ!」「東北信各署からできるだけ多数の人員を応援させられたい」と指示を出した)[21]

15時20分ごろ、メンバーは銃を乱射しながらさつき山荘を脱出し、自動車がある家を探す中で浅間山荘を発見した。この時、機動隊2人が連合赤軍メンバーに撃たれて負傷している[19]。最初に侵入した坂口が管理人の妻を発見、管理人や宿泊客は外出していて山荘内は管理人の妻一人きりだった。坂口は管理人の妻に「騒いだり逃げたりしなければ危害を加えない」と繰り返し告げ人質として立てこもることにした[22][注釈 7]

吉野は管理人の妻の拘束に異議を唱え、車を奪って逃げることを提案したが、坂口は管理人の妻を人質として、警察に森と永田の釈放と浅間山荘のメンバーの逃走を保障させようと計画していた。しかし、吉野がそれに反対したため、この計画は断念されたが、皆が食事を取っていないこと、坂口自身が植垣に右の靴を貸してしまっていて履いてないことを挙げて、山荘にとどまる考えを示すと坂東も同調したため、最終的に吉野が坂口の意見に折れて籠城することが決定した[24]

坂口が車のキーの所在を人質に尋ねると、車のキーは出掛けている人質の夫が持っていると答えたために車での逃走も断念した(なお、連合赤軍5人の中に、車の運転免許を持っている者はいなかった)。事件後、車のキーは山荘の玄関で発見されたという[22][9]。坂口は人質に対し、「人質ではなく、助けを求めた山荘の管理人」という説明を行い、以後この考えに縛られ人質を利用する考えを放棄せざるを得なくなった[22]。警察側は、人質を取られているうえ十分な人員が到着しておらず、また別働の連合赤軍の呼応の恐れもあったため、突入できずに説得を試みている中、連合赤軍メンバーらは山荘内にバリケードを築いていった[25]

すでに逮捕され、本事件の勃発を知らされた連合赤軍リーダーの森恒夫は、渋川署員に対して「警察が全員射殺をしない代わりに、自分が立てこもっているメンバーを説得して投降させる」として現地に行かせるように要求したが、その前に供述するよう要求され、森はこれを拒否したため実現しなかったという。森はこの自身の行動を「敗北主義」「降伏主義」として事件後に自己批判している[9]
2月20日

2月20日、朝食後坂口、坂東、吉野の3人で今後の方針を協議。吉野が警察の包囲網を強行突破することを主張したが他の2人の反対に合い、自説を取り下げた。吉野は抗戦して殺害されることを念頭に置いてこのような主張をしたと逮捕後証言したという[22]。坂口は人質を自分たちの逃走の取引に使うことを一度は提案したが、前夜人質に人質でないと説明したこと、山岳ベース事件の犠牲者への償いのためにも警察権力と闘うしかないと考えたことからこの考えを取り下げる[22]

坂口は「ここで徹底抗戦する。1日でも長く銃撃戦を闘う、警察官に降伏しない、1日でも長く抗戦を続けることに意義がある」と発言し、坂東・吉野もこれに同意した[24]。「徹底抗戦をするのなら人質は必要ないのでは」と吉野が人質を解放する案を提案したが、坂口は身元が発覚することを理由に却下[24]。実際は長く抗戦するためだったという[22]。坂口が協議の結果を加藤兄弟にも説明した。

犯人たちは山荘内の食糧を集め、1か月は持つと考えていた。警察は、管理人から山荘には20日分の食糧が備蓄されており、さらに6人の宿泊客のために食糧を買い込んでいることを聞いたため、兵糧攻めは無理と判断して説得工作を開始した。

8時40分と同46分に、上空のヘリに向けて犯人たちが発砲。午前11時過ぎから、装甲車の中より夫や親族による人質への呼びかけが行われた[26]

当初は人質を縛りつけ、口にはハンカチを押し込んで声が出ないようにしていたが、この日の午後、坂口が独断で縄を解いた。前日に人質に対して人質にするつもりはないと言ったことと、人質の緊縛姿が山岳ベース事件で縛られながらリンチ死した同志と重なったためであったという。坂口の独断による行動であったが他のメンバーは何も言わなかった[22]

人質も交えて夕食。加藤弟が電気ジャーで御飯が炊きあがってすぐ食べようとしたのを人質が「ご飯は少しそのままにしておいた方がおいしいよ」とたしなめ、加藤弟が素直に従い御飯が蒸れるのを待ってから人質の「もういいでしょう」の言葉を聞いてから食べるなど犯人と人質の間でちょっとした雑談があったという[22]
2月21日

2月21日、犯人5人は盗聴や人質から身元が割れることを警戒してコードネームを決めた。コードネームは、坂口は「浅間」、坂東は「立山」、吉野は「富士山」、加藤倫教は「赤城」、加藤弟は「霧島」であった[22][27]


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