?都
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? 都[1](きょう と、生没年不詳)は、中国後漢末期に汝南で活動した賊将。
生涯

建安5年(200年)7月、袁紹の下にいた劉備は、その下を離れることを望み、名目として荊州劉表と連携することを進言。その思惑通りに指示を受けた劉備は、敵対する曹操軍の後方に当たる汝南へ向かい、同地の賊徒である?都の軍と合流。その勢力は数千人に上った。曹操は蔡陽を派遣したが、撃ち破られた[2]

建安6年(201年)9月、曹操が自ら討伐に向かうと、劉備は劉表の下へと逃走した。?都の軍勢は四散し、その後の動向は不明[3]
三国志演義

小説『三国志演義』では劉辟と共に、黄巾党の残党として登場[4]。初めは袁紹に帰順していたが(第26回)、劉備の軍勢が南下してくると彼らと行動を共にする(第28回)。

劉備が許昌攻略を図り、曹操軍と対峙している最中、?都は汝南から食糧の運搬を担当していたが、曹操の別軍によって襲撃を受ける。張飛が救援に向かうが、駆けつけた時には既に夏侯淵によって殺されていた(第31回)。
脚注[脚注の使い方]^ 陳寿三国志』魏書 武帝紀では共都とする。
^ 司馬光資治通鑑』巻63 漢紀55
^ 『資治通鑑』巻64 漢紀56
^ 正史『三国志』では「黄巾」と表記されるのは劉辟のみ。


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