?徳
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この項目では、武将の?徳について説明しています。名士については「?徳公」をご覧ください。

?徳
絵本通俗三国志の?徳(樊城の戦い
後漢
関門亭侯・立義将軍
出生生年不詳
涼州南安郡?道県
死去建安24年(219年)8月
樊城(湖北省襄陽市樊城区
?音Pang De
令明
諡号壮侯
主君馬騰馬超張魯曹操
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? 徳(ほう とく、? - 219年8月[1])は、中国後漢末期の武将。は令明(れいめい)。涼州南安郡?道県(現在の甘粛省天水市武山県四門鎮)の人。従兄は?柔[2]。子は?会。?悳とも表記される(「悳」は「徳」の異体字)。『三国志志「二李臧文呂許典二?閻伝」に伝がある。

関中軍閥の馬騰馬超父子の配下で、曹操に敗れた馬超が漢中張魯に身を寄せた時もこれに従ったが、そこで馬超と袂を分かち曹操に仕えた。曹操配下として活動した期間は短かったが、その忠烈な最期を称えられた。
略歴
涼州の勇士

若くして郡吏やの従事となった。

初平年間、馬騰に従って族や?族の反乱を撃破した。幾度か功績を挙げて昇進し、校尉に昇った。

建安7年(202年)、曹操が袁譚袁尚黎陽に討った際、袁譚らは南匈奴単于呼廚泉に曹操を裏切らせ、郭援高幹に数万の軍勢で侵攻させた。この時、馬騰は袁譚らと内通しようとしたが、鍾?張既傅幹らの説得を受けて思い止まった。

馬騰は馬超に兵1万余りを預け、鍾?の援軍として派遣し、郭援らを平陽で防がせた。?徳はその先鋒となって敵軍を大破し、郭援を自らの手で討ち取ったが、この時点では相手が郭援だと知らずにいた。帰陣した?徳が弓袋から首級を取り出すと、それが甥の郭援だとわかった鍾?が号泣したので、?徳は謝罪した。鍾?はそれに対して「郭援は我が甥とはいえ国賊です。貴公が謝ることはありません」と答えたという[2]。この功績により中郎将に昇進し、都亭侯に封ぜられた。

建安10年(205年)、再び高幹が反乱し、黒山賊の張白騎(張晟)が弘農で呼応すると、曹操の援軍を引き受けた馬騰に従って、両?で張白騎を討伐した。?徳は戦う毎に陣を陥れて敵を退け、その武勇は馬騰軍随一とされた。

建安13年(208年)、馬騰が入朝して衛尉に任命されると、?徳は留まって馬超に仕えた。

建安16年(211年)、馬超が渭南で曹操に敗れると、馬超に従って漢陽へ逃げ込み、冀城に入った。後に涼州を追われた馬超が漢中に走った際も、それに伴った。

建安19年(214年)、馬超が益州に出奔する一方[3]、?徳はそのまま張魯の下に留まっていた。

建安20年(215年)、曹操が漢中を平定した時、張魯と共に曹操に降伏し、その家臣となった。曹操は?徳の勇猛さを知っていたため、立義将軍に任命して関門亭侯に封じ、所領数を300戸とした。
忠節に死す

荊州宛城侯音や衛開らが反乱を起こすと、曹仁と共に鎮圧し両者を処刑した。続いて樊城に駐留し、劉備軍の関羽に備えた。

従兄の?柔が漢中在住であることを理由に、?徳は樊城の諸将たちに強く疑われた。?徳は常々、「私は国のご恩を受け、命を懸けることで義を行なうものである。この手で関羽を討ちたい。今年関羽を殺さなければ、関羽が必ず私を殺すであろう」と語っていた。後に関羽と戦って矢をその額に命中させた。当時、?徳は白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は?徳を白馬将軍と呼んで畏れた。

?徳は曹仁の命令で、樊城から北へ10里の地点に駐屯していたが、長雨の影響で漢水が氾濫した。水没を避けられる丘に避難すると、関羽率いる水軍により四方から射撃された。孤立無援の中、?徳は弓をとって勇戦し、関羽に降ろうとした配下の董衡・董超ら全員を殺害した。夜明けから午後にかけて戦闘は続いたが、矢が尽きたため、短兵(近接武器)で戦わねばならなくなった。?徳は、督将の成何に対し「私は、良将は死を恐れて逃れようとはせず、烈士は節を折って生を求めることはないと聞いている。今日こそが私の死期なのだ」と告げた。増水に伴い、兵は挙って降伏した。?徳は配下の将一人と部隊長二人と共に小舟に乗り、曹仁の下に帰還しようとしたが、水の勢いで小舟が転覆し、携えていた弓矢も失ったところを捕縛された。

関羽は、漢中にいる従兄を引き合いに出して降伏を勧めた。しかし?徳は「豎子(小僧)めが、何故に降伏を説くか! 魏王(曹操)は100万の軍を擁し、天下に威を振るっている。劉備などという凡才が敵おうものか! 私は国家の亡霊となろうとも、賊将にはなるまい」と拒絶し、首を討たれた。

?徳の死を聞いた曹操は涙を流して悲しみ、?徳の子2人を列侯に封じた。またこの時に、宿将の于禁が関羽に降伏したことと、?徳の死に様を対比し「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、(新参ながら忠義を尽くした)?徳に及ばぬとは思いもよらなかった」と語った[4]

?徳はその忠義を高く評価され、後に即位した曹丕は、墓前に遣いをやって壮侯とした。その際、子の?会ら4人も爵位と封邑を授かった。

景初4年(243年)秋7月、曹芳は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。?徳はその中に列している[5]

陳寿は、?徳の決死の振る舞いを、降伏を誘った項羽を拒み殺害された周苛に準えて評している。


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