龍角寺古墳群
[Wikipedia|▼Menu]

龍角寺古墳群
龍角寺古墳群
別名竜角寺古墳群
所属龍角寺古墳群
所在地千葉県成田市印旛郡栄町龍角寺978ほか
位置北緯35度49分29.0秒
東経140度16分08.7秒座標: 北緯35度49分29.0秒 東経140度16分08.7秒
形状前方後円墳・円墳・方墳
規模114基
埋葬施設横穴式石室
築造時期6世紀前半?7世紀
被葬者不明
史跡国の史跡
1941年:岩屋古墳のみ指定。
2009年:他92基追加指定
「龍角寺古墳群・岩屋古墳」
地図 龍角寺
古墳群
テンプレートを表示

龍角寺古墳群(りゅうかくじこふんぐん)[1]は、千葉県成田市印旛郡栄町の、印旛沼北東部の下総台地上に、6世紀前半から7世紀にかけて造営された古墳群である。
目次

1 古墳群の概要

2 古墳群の立地

3 古墳群の調査研究史

4 古墳群の歴史

4.1 古墳群の誕生

4.2 浅間山古墳の造営

4.3 岩屋古墳と方墳造営


5 龍角寺と埴生郡衙

6 龍角寺古墳群の特徴

7 主な古墳

8 脚注

9 参考文献

10 関連項目

11 外部リンク

古墳群の概要

龍角寺古墳群は、現在のところ114基の古墳が確認されている[2]。古墳群の中には、龍角寺参道沿いに中世から近世にかけて造られたと考えられている塚が数多くあり、見かけ上古墳との区別が難しいため、数については不確定な要素が残っている[3]

龍角寺古墳群は前方後円墳が37基、方墳が6基、円墳71基で構成されている[4]。しかし確認されている前方後円墳の多くが、円墳に短小な方形部が付く帆立貝形古墳に類似したもので、現在円墳とされている古墳の中からも、今後発掘調査などが進めば前方後円墳が増える可能性がある。また築造当時は方墳であった古墳の一部も、墳丘の改変などで今は円墳のようになっているものもあると考えられ、方墳の数も増える可能性がある[5]

龍角寺古墳群は所属する古墳の一部しか調査発掘されておらず、まだ明らかになっていない点が多いが、古墳時代前・中期に築造された古墳は見当たらず、6世紀以降の古墳時代後期にその築造が開始されたと考えられている[6]。現在のところ龍角寺古墳群の中で最も古い時期に築造されたと考えられている古墳は帆立貝形古墳である101号墳で、検出された埴輪の形式などから6世紀第二四半期に築造されたと見られている[7]。その後7世紀にかけて龍角寺古墳群では古墳の造営が続いた。

古墳群を構成する古墳の多くは小型で、前方後円墳では全長20-30メートル、円墳では直径10-20メートルのものが多い[8]。龍角寺古墳群では当初、小型の前方後円墳や円墳が造られていたと考えられるが[9]7世紀前半以降、浅間山古墳と、日本第二位の規模を誇る方墳である岩屋古墳という印旛沼周辺地域で最も大きい古墳が造営された。これは印旛沼周辺地域の地域の主導権が、公津原古墳群を造営した首長から龍角寺古墳群を造営した首長へと移ったことにより、浅間山古墳、岩屋古墳と地域を代表する大きさの古墳が龍角寺古墳群内に造営されるようになったとされる[10]。また龍角寺古墳群は複数の首長が同一の墓域を利用していたものと考えられており、浅間山古墳や岩屋古墳のような地域を代表する首長を葬った盟主墳にあたる古墳と、その下に位置する首長墳が同一時期に築造されていたものと見られている[11]

浅間山古墳は7世紀初頭に築造されたとの説と7世紀第二四半期に造られたとの説があり、論争になっている。いずれにしても浅間山古墳は前方後円墳の中でも最後の時期に造営された古墳のひとつと考えられている。龍角寺古墳群では浅間山古墳の造営後は、岩屋古墳、みそ岩屋古墳など方墳が造営されるようになった[12]

7世紀後半、龍角寺古墳群の北方に龍角寺が造営される。また古墳群の北東には埴生郡衙跡と考えられている大畑遺跡群がある。これは6世紀の古墳時代後期以降、龍角寺古墳群を造った首長は、7世紀後半には龍角寺を建立し、そして律令制が成立した後も郡司となってその勢力を保ったことを示唆している[13]

龍角寺古墳群を造営した首長は、かねてから国造本紀の記述などから印波国造と考えられており、最近の研究では大生部直氏ではないかと見られている[14]。龍角寺古墳群は住宅地の造成や道路建設によって消滅した古墳もあるが、古墳群に属する古墳の多くが房総のむら内にあって比較的良好な状態で保存されており、古墳時代後期から終末期古墳にかけての古墳の造営状況を知ることが出来る上に、地方首長による寺の造営、そして律令制の時代には郡司となっていくまでの経過を見ることができる貴重な遺跡として評価されている。1941年に岩屋古墳が単独の古墳として国の史跡に指定された。2009年2月12日には龍角寺古墳群に所属する古墳のうち浅間山古墳など92基が追加指定され、史跡の指定名称が「龍角寺古墳群・岩屋古墳」に変更された[15]
古墳群の立地

龍角寺古墳群は印旛沼北西部の標高約30メートルの下総台地上に位置している。龍角寺古墳群がある付近の下総台地は幅が比較的狭く、古墳群は狭い台地上を北西側から南東側に約1.5キロメートルにわたって帯状に分布している[16]。古墳群の中で比較的早い時期に造られたと考えられる前方後円墳や円墳は、古墳群の西側である印旛沼に面する場所に位置しており、後半に造られた龍角寺古墳群を代表する浅間山古墳・岩屋古墳、そして岩屋古墳の後に造られたみそ岩屋古墳などの方墳は、古墳群の北方にかつて存在した香取海方面からの谷の源頭部にあたる丘陵上に築造されている。これは浅間山古墳や岩屋古墳などの方墳は、印旛沼よりも北側の香取海方面を意識して築造場所を選んだものと解釈されている[17]

龍角寺古墳群のすぐ南東側には、上福田古墳群、大竹古墳群というやはり古墳時代後期から終末期にかけて造営された古墳群がある。上福田古墳群、大竹古墳群については古墳群の構成などから龍角寺古墳群と同一の古墳群と見なす研究者もいる[18]

また龍角寺古墳群の南には4世紀から古墳の造営が見られる公津原古墳群、そして印旛沼東岸には北須賀勝福寺古墳群があり、印旛沼東岸には多くの古墳群が存在する。
古墳群の調査研究史 古くから開口していた岩屋古墳西側横穴式石室。貝化石を含んだ下総層群木下層の砂岩を積み上げて造られている。

龍角寺古墳群について現在知られている最も古い文献は、1591年(天正19年)の岩屋古墳について書かれたもので、当時すでに岩屋古墳の横穴式石室が開口していたことが判明している[19]。その後1816年(文化13年)、1821年(文政4年)、1845年(弘化2年)と、江戸時代後期に岩屋古墳について紹介された文献がある[20]

明治以降もまず岩屋古墳への関心が先行した。明治30年代から40年代にかけて、喜田貞吉坪内逍遥ら著名人が岩屋古墳を訪れた記録が残っている[21]

1933年後藤守一が龍角寺古墳群の調査を実施した。このとき初めて岩屋古墳以外の古墳についても関心が向けられ、現在、風土記の丘資料館の前にある57号墳(前方後円墳)の発掘も行われたというが、調査結果は全く残っていない[22]

1941年1月27日、岩屋古墳は国の史跡に指定された[23]

1947年、円墳である110号古墳が早稲田大学考古学研究室の手によって発掘が行われた。この際に組み合わせ式の箱形の石棺、土器の細片が検出された[24]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef