龍口寺
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龍口寺
本堂・五重塔
所在地神奈川県藤沢市片瀬三丁目13番37号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度18分42.17秒 東経139度29分21.69秒 / 北緯35.3117139度 東経139.4893583度 / 35.3117139; 139.4893583座標: 北緯35度18分42.17秒 東経139度29分21.69秒 / 北緯35.3117139度 東経139.4893583度 / 35.3117139; 139.4893583
山号寂光山[1]
宗派日蓮宗
寺格本山(霊跡寺院)
本尊三宝尊
創建年延元2年(建武4年・1337年
開山日蓮[2]
開基日法
正式名寂光山 龍口寺
別称片瀬のお祖師様
札所等日蓮上人霊跡
公式サイト ⇒日蓮宗霊跡本山 寂光山龍口寺
法人番号1021005000288
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龍口刑場跡仏舎利塔五重塔大書院(旧・松代藩藩邸)大檀越・島村采女墓

龍口寺(りゅうこうじ)は、神奈川県藤沢市片瀬龍口刑場跡に建つ日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は寂光山(じゃっこうざん)。[3] 「竜口寺」と表記される場合もある。
歴史

日蓮宗の開祖・日蓮は、“天災や人災によって国内が混乱し人心が頽廃する原因は、幕府や諸宗が正法に帰依していないからである”とする『立正安国論』を著し、文応元年(1260年)7月16日に北条時頼に上呈して国家諌暁を行った。しかし、幕府はこれを拒絶した上に国家への反逆と見做し、御内人平頼綱に命じて弾圧を加えた。(松葉ヶ谷法難・伊豆法難等)それでも幕府や諸宗に対して批判の手を緩めない日蓮に対し、龍ノ口刑場での斬首刑とするため、文永8年(1271年)9月12日の夕刻に日蓮を連行した。その際、日蓮に縁のある桟敷の尼という女性が黒胡麻で作った牡丹餅を鍋蓋に乗せて供養したといわれている。[4] 龍ノ口到着後には土牢に閉じ込めておき9月13日に差し掛かったあたりで刑が執行されそうになったが、「種々御振舞御書」に拠れば、この時に江の島の方角から強烈な光り物が現れ太刀取り役の武士の目がくらむほどの事態に陥いり、刑の執行が中止されたと伝えられている。これが“日蓮一生の中でも最も死に直面した危機である”として、日蓮宗では「龍口法難」と称し四大法難の一つに数えられるようになった。[5]

その後、延元2年/建武4年(1337年)に、日蓮の弟子・日法がこの「龍ノ口法難霊蹟」に、処刑の際に首の座に敷かれたという「首敷皮」と「自作の祖師像」を安置し敷皮堂という堂宇を建立した。これが龍口寺の始まりと伝わっている。更に時が下って慶長6年(1601年)には、腰越・在住の国人で日蓮宗の信奉が篤かった島村采女が寺領を寄進し、本格的な寺観が整えられた。なお、明治19年(1886年)までは専従の住職を置かず、龍口寺輪番八ヶ寺と称される寺院が輪番制(交代制)で維持していた。

現住は15世・本間日恩貫首(東京都台東区善慶寺より晋山)、池上法縁五本山の一つ。
境内・伽藍
大本堂
天保3年(1832年)建立。欅造り銅版葺。間口12間・奥行15間。神奈川県の代表的な木造大建築物で、正面には開山・中老僧日法作の日蓮像が安置され、脇陣に六老僧鬼子母神清正公像等が祀られている。敷皮石を安置することから「敷皮堂」とも称し、堂内正面にその扁額が掛かる。
仏舎利塔
昭和45年(1970年)9月12日建立。龍口法難700年を記念し日本山妙法寺(藤井日達)が建立。塔内には仏舎利が安置されている。龍口寺裏山(龍口山)の高台にあり、かつては江ノ島相模湾を一望の下にできたが、国道134号国道467号沿いに複数の高層ビルが建って以降、視界がビルにさえぎられるようになった。
御霊窟
龍口法難の際、日蓮が処刑までの間一時入れられていた土牢。現在は日蓮の銅像が安置されている。
七面堂
江戸時代初期に身延七面山の七面大明神を勧請した。毎月19日には例祭が行われている。
妙見堂(旧・法善坊)
享保5年(1720年)建立。欅造り銅版葺。龍口法難に縁のある光の松の材木で造られた妙見大菩薩を安置する。
五重塔
明治43年(1910年)建立。欅造り銅版葺。建造には竹中工務店が携わった。彫刻は一元流(藤沢彫川)の一元安信。神奈川県唯一の本式木造五重塔で、大本堂とともに「神奈川建築物百選」に選定されている。全国的にも数少ない明治期の五重塔だが、近年老朽化が目立つ。
龍口刑場跡
鎌倉時代の刑場。文永8年(1271年)9月12日に日蓮が斬首に処されそうになった龍口法難の霊跡。の使者や北条時行等もこの地で処刑されたという。
大書院
昭和10年(1935年)に、信濃国松代藩の藩邸を移築したもの。欅造り瓦屋葺。両側面大廊下の12間一本通しの杉柱が特徴的である。
寂光殿
納骨位牌堂。
経八稲荷堂
龍口寺に寺領を寄進した大檀越・島村家に安置されていた地元の八体の守護神の一つ。経六は龍口明神社に安置されている。
鐘楼堂
昭和44年(1969年)に龍口法難750年を記念し、大本山中山法華経寺から移築された。その際に700貫(2.6t)の梵鐘が鋳造され「延寿の鐘」と銘された。
仁王門
昭和48年(1973年)建立。鉄筋コンクリート造り瓦葺。仁王尊像は彫刻家・村岡久作の作。
山門
元治元年(1864年)建立。欅造り銅版葺。大阪雷雲寺の発願で豪商・鹿島屋某が寄進。正面に「龍口寺」裏面に「寂光山」の扁額が掛かり、門を飾る八枚の彫刻には中国の故事が細密に彫られている。
龍口会館
檀信徒用会館。
島村采女墓
大檀越・島村采女はじめとする島村家代々の墓。本堂すぐ脇にある。
萬人歯骨塚
明治14年(1881年)に入歯師の水野房吉が、歯や入歯の供養と入歯師の技術向上を願って建立したもの。社団法人藤沢市歯科医師会では、10年前に整備し以来毎年6月の第一日曜日に供養祭を開催している。
龍口明神社 元社
江ノ島弁財天に恋をした五頭龍伝承が残る地。山に姿を変えた五頭龍の口にあたることから「龍口」の地名が付いたといわれ、その五頭龍を祀っている。昭和53年(1978年)に現在地に遷宮された。
文化財
藤沢市指定有形文化財


本堂

山門

五重塔

登録有形文化財

以下の4棟の建造物が令和3年(2021年)に国の登録有形文化財に登録された。[6][7]

妙見堂

大書院

鐘楼

手水舎

歴代住持

延元2年(1337年)の敷皮堂建立から、明治19年(1886年)の太政官布達により龍口寺に住職が置かれるまでの約550年間は、龍口寺輪番八ヶ寺による輪番制。
龍口寺輪番八ヶ寺

龍口寺輪番八ヶ寺とは龍口寺を輪番で護持した片瀬・腰越に点在する8つの寺院。いずれも山号を龍口山という。この8ヶ寺はそれぞれが日蓮宗内の主要門流を代表しており、宗門全体で龍口寺を護持するという意義を有する。[8] なお、輪番制は身延山久遠寺日蓮廟・霊跡本山佛現寺・霊跡本山根本寺等でも行われていた。

龍口山本蓮寺(元 大光山本圀寺末・潮師法縁・1304年改宗)  藤沢市片瀬

龍口山常立寺(元 身延山久遠寺末・潮師法縁・1532年改宗)  藤沢市片瀬

龍口山勧行寺(元 経王山妙法華寺末・潮師法縁・1303年建立) 鎌倉市腰越


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