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日本の政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}斎藤(さいとう) 実(まこと).mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}齋藤󠄁 實
内閣総理大臣在任時(昭和7?9年)
生年月日1858年12月2日
(安政5年10月27日)
出生地 日本 陸奥国胆沢郡塩竈村
(現:岩手県奥州市水沢吉小路)
没年月日 (1936-02-26) 1936年2月26日(77歳没)
死没地 日本 東京府東京市四谷区
(現:東京都新宿区)
出身校海軍兵学校卒業
前職海軍次官
称号 海軍大将
従一位
大勲位菊花大綬章
功二級金鵄勲章
勲一等旭日大綬章
子爵
配偶者斎藤春子
親族仁礼景範(岳父)
斎藤斉(養嗣子)
サイン
第30代 内閣総理大臣
内閣齋藤内閣
在任期間1932年5月26日 - 1934年7月8日
天皇昭和天皇
第8代 内大臣
在任期間1935年12月26日 - 1936年2月26日
第41代 文部大臣(総理兼任)
内閣齋藤内閣
在任期間1934年3月3日 - 1934年7月8日
第43代 外務大臣(総理兼任)
内閣齋藤内閣
在任期間1932年5月26日 - 1932年7月6日
第3・5代 朝鮮総督
在任期間1919年8月13日 - 1927年12月10日1929年8月17日 - 1931年6月17日
その他の職歴
第6代 海軍大臣
(1906年1月7日 - 1914年4月16日)
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斎藤 実(さいとう まこと、旧字体:齋藤󠄁 實、1858年12月2日〈安政5年10月27日〉- 1936年〈昭和11年〉2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。第30代内閣総理大臣。
概要1910年ごろ
出生時の名前は富五郎(とみごろう)といったが、海軍兵学校卒業後に改名した。号は皋水(こうすい)。
第一次西園寺・第二次桂・第二次西園寺・第三次桂・第一次山本の5内閣で海軍大臣を務めた。その間に男爵に授爵。後に、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任した。その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権を務め、朝鮮総督を2期務めているあいだに、子爵に陞爵。
総理大臣であった犬養毅が海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で暗殺された。 陸奥国胆沢郡塩竈村に、当地を地方知行により治めていた仙台藩一門水沢伊達氏に仕える斎藤高庸[1]の長男として1858年(安政5年)に生まれた[2]。幼名は富五郎[2]。 斎藤家は、水沢伊達氏(留守氏)家中で上から4番目の家格「二番着坐」10家の1つであり、水沢伊達氏家臣団(808家)における序列は15位[1]。父の高庸は、水沢藩士として目付・小姓頭を務め、明治維新後は岩手県警察官となった(明治14年に死去)[3]。 『子爵斎藤実伝』によれば、斎藤氏の始祖とされる斎宮頭藤原叙用の五世孫の竹田四郎頼基の子孫一族から鎌倉幕府の奉行人が多く出ている。斎藤又四郎基長が鎌倉陥落の後に奥州へ赴き留守氏(後の水沢伊達氏)の配下となり、留守氏の居城であった岩切城がある宮城郡岩切邑(現・宮城県仙台市宮城野区岩切)に居住したのが初祖とされている。 1873年(明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学[注釈 1]、1879年(明治12年)に卒業した(6期)。同期に山内万寿治、坂本俊篤がいて、「海軍の三秀才」と呼ばれた[5]。1884年(明治17年)9月19日から1888年(明治21年)10月26日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。
経歴
生い立ち
海軍軍人として海軍大臣のころ