鼠小僧
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中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2009年9月)


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この項目では、江戸時代に実在した人物について説明しています。彼を題材とした歌舞伎の演目については「鼠小紋東君新形」をご覧ください。

「鼠小僧次郎吉」はこの項目へ転送されています。大佛次郎の小説及び原作映画・テレビドラマについては「鼠小僧次郎吉 (大佛次郎)」をご覧ください。
四代目市川小團次の鼠小僧
安政4年正月(1857年2月)、江戸市村座初演の『鼠小紋東君新形』より。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}2代目歌川豊国画[要出典][1]

鼠小僧(ねずみこぞう)こと次郎吉(じろきち、 寛政9年〈1797年〉 - 天保3年8月19日1832年9月13日〉)は、江戸時代後期(化政期)の盗賊。鼠小僧次郎吉として知られる。大名屋敷のみを狙って盗みに入り、人を疵つけることもなかったことから、後世に義賊として伝説化された。

本業は鳶職であったといわれる。
生涯

以下は「鼠賊白状記」と呼ばれる鼠小僧自身の自白調書による。
生い立ち - 盗人稼業へ・1度目の捕縛

歌舞伎小屋・中村座便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる[注 1]。10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰った。その後は鳶人足となったが、不行跡のため父親から25歳の時に勘当される。その後は賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる。

文政6年(1823年)以降、武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所32回に及んだが、文政8年(1825年)に土浦藩上屋敷(現:日本橋蛎殻町二丁目。当時の藩主は奏者番土屋彦直)に忍び込んだ所を捕縛された。南町奉行所の尋問を受けるが、「初めて盗みに入った」と嘘をついて切り抜け、入墨の上で追放の刑を受ける。
なおも続く盗人稼業 - 2度目の捕縛・処刑

一時は上方へ姿を消したものの、江戸に密かに舞い戻り、父親の住んでいる長屋に身を寄せる。しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業を始めた。

その後7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みついに天保3年5月5日1832年6月3日)(日付については8日6日)などの諸説あり)、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(当時の藩主は松平忠恵)で捕縛された。五尺に満たぬ小男で、動作敏捷といい、捕まったときは碌な家財道具もなく金もなかった。

北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、十年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだ金三千両余り、と鼠小僧は供述したが、本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。

3ヵ月後の8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで、既に有名人であった鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せたという。市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みすぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅まで注していたという。

処刑は小塚原刑場にて行われた。
その後鼠小僧墓(両国回向院)

当時の重罪には連座制が適用されていたが、鼠小僧は勘当されているために肉親とは縁が切れており、数人いたという妻や妾にも捕縛直前に離縁状を渡していたため、天涯孤独の身として刑を受けた。この自らの行いに対し他人を巻き込まずに済ませたという点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因のひとつとなっている。

墓は両国の回向院にある。参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰り、お守りにしている[2]。また愛知県蒲郡市の委空寺にも母親の手によるとされる墓を移設したものがある。その他、南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市岐阜県各務原市等にも鼠小僧に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある。
異説

異説として、西之郡村(現愛知県蒲郡市)が生家であるとの説がある。「鼠小僧次郎吉」(神明町)

江戸時代末期の一八三〇年代、天保年間のお話。何年かは分からないが、当時西の郡と呼ばれていた蒲郡に江戸から一人の老婦人がひっそりと帰ってきて暮らしはじめた。三十五、六年ぶりのことだ。家の裏手には、うっそうとした藪が広がっていた。その藪の中に、名前も戒名も書かれていない粗末な墓らしきものがある、と近くの住民が気づいたのは、それからしばらくたってからのことだった。老婦人の名を、かんといった。ある日のこと、道でかんとすれ違った住民が尋ねた。「藪の中にある墓は、どなたをご供養なさっているんですか」。かんは一瞬、驚いた様子を見せ、顔をくもらせた。しばらくたって小さな声で「倅の」とだけ、言って立ち去った。「がまごおり風土記」(伊藤天章著)には、文政期に江戸市中の大名屋敷に忍び込み、天保三年に三十八歳で処刑された鼠小僧次郎吉は蒲郡の生まれだと書かれている。母親のかんは、処刑のあと一握りの遺髪を手に蒲形村に帰り、墓をつくり冥福を祈った。この墓が後に委空寺(神明町)に移されたという。次郎吉の生家は現在の神明町。生後間もなく父の定七は江戸に旅立ってしまう。一、二年後、母のかんは、定七を追って幼い次郎吉を背負い上京した。お墓のいわれとともに、このような話も代々語り伝えられている。真実はともかく、鼠小僧は歌舞伎や小説、映画に義賊として描かれている。地元の人たちには、ちょっぴり自慢だったに違いない。(広報がまごおり:H23.1より引用[3]
義賊伝説をめぐる虚像と実像

鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた」という義賊伝説がある。事実、次郎吉が捕縛された後に役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。しかし鼠小僧の記録を見ると盗んだ金銭を分け与えた事実はどこにも記されておらず、新聞記者経験もある作家の矢田挿雲は「(盗んだ金の大半は)衣食住の贅沢に費ひ其他は酒色遊興又は博奕の資本に使ひ際立って貧民に施した形跡は無い」と義賊伝説を否定している[4]

また鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから、歌舞伎時代劇などでは江戸時代における反権力の具現者のように描かれることが多い。しかし、次郎吉が大名屋敷に限って盗みに入った理由については自身で説明しており、武家屋敷は外見が厳重なばかりで、屋敷内は警備が手薄で出入りが容易であったこと、屋敷内の奥向、長局は役人たちも遠慮して入らないため、万一見とがめられても逃げるのに都合がいいことなどを挙げている。これを受け江戸学の祖として知られる三田村鳶魚は「便宜上武家屋敷を選定したのであって、決して被害者の境遇に対する思慮を有する訳ではなかったのが知れる。武家屋敷と云った処が男禁制の奥向ばかりを目掛けて這入ったのを見れば恐れず怯まぬ胆胸があったのではない」と人物像そのものにも疑問を呈している[5]


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