黛ジュン
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黛 ジュン
出生名@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}渡邉[
要出典] 順子(わたなべ じゅんこ)
別名渡辺 順子(旧芸名)
生誕 (1948-05-26) 1948年5月26日(76歳)
出身地 日本 東京都調布市
職業歌手
活動期間1956年 -
レーベル東芝音楽工業
CBS・ソニー
事務所オフィス・マユズミ

まゆずみ じゅん
黛 ジュンプロフィール
生年月日1948年5月26日
現年齢76歳
出身地 日本東京都調布市
血液型O型
公称サイズ(時期不明)
身長 / 体重160 cm / ― kg
スリーサイズ85 - 58 - 88 cm
靴のサイズ22.5 cm
単位系換算

身長 / 体重5 3 / ― lb
スリーサイズ33 - 23 - 35 in

活動
デビュー1956年
ジャンル歌手、女優
モデル内容グラビア・モデル
モデル: テンプレート - カテゴリ

黛 ジュン(まゆずみ ジュン、本名:渡邊[要出典] 順子(わたなべ じゅんこ)、1948年5月26日 - )は、日本歌手女優東京都調布市出身。

1960年代後半を中心に、独特のパンチの効いた魅力的な歌声でヒットを飛ばした。実兄は作曲家三木たかし
概略

活動開始は古く、1956年、8歳から歌手活動を始めている。品川区立冨士見台中学校卒業後、本名で各地の米軍キャンプをジャズ歌手として巡った。

1964年に「渡辺順子」の名でデビューするもヒットせず、1967年石原プロモーションへ移籍する。作曲家黛敏郎のファンだったことと、パンチのある歌唱力から「黛ジュン」と改名し、東芝音楽工業(現:ユニバーサル ミュージック合同会社)から「恋のハレルヤ」で再デビュー。ミニスカートと共にパンチの効いた歌声で一気に注目を集める。グループサウンズのブーム[1]と同時代に活躍したこととサウンドから、中村晃子らとともに一人GSとも呼ばれた。「土曜の夜何かが起きる」ほかの曲は、一人GSの有名曲である。鈴木邦彦が、作曲を担当することが多かった。兄の三木たかしが作曲したヒット曲もある。

1968年にリリースされた「天使の誘惑」は更なる大ヒットとなり、その年の第10回日本レコード大賞に輝いた。1967年から1968年の2年間で、レコード売上が500万枚を記録。自身のヒット曲が主題歌となった映画にも出演。「天使の誘惑」「夕月」では主演に抜擢、売れっ子女優にもなった。また年末恒例のNHK紅白歌合戦では、1967年の第18回から1970年第21回まで、4年連続で通算4回の出場を果たしている。

1970年2月1日を以って、橋幸夫が所属するワールド・プロへ移籍[2]。同年にスタジオミュージシャン江藤勲と婚約[3]、結婚し一旦引退する。しかし、江藤の家庭内暴力などが原因で、1973年に離婚。その後本格的に芸能界へ復帰する。しかし以前のような人気は得られず低迷したため、1980年にはレコード会社をCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)へ移籍、「風の大地の子守唄」などを発表した。さらに、1983年には日活ロマンポルノ女帝」にも出演する。1993年には久々の新曲「すべてがさよならになる」を発売。2005年には、1970年に東京サンケイホールで行われた『リサイタル'70』などがCD化された。

またドラマーの石田秀雄と2回目の結婚となるが、1994年に再び離婚。2001年作詞家里村龍一と婚約を発表し話題を集めたが、里村がその後知り合いのイタコに相談したところ、「二人の相性が最悪。5年後には歌を辞めるように」と告げられたことがきっかけで、里村から別れを切り出され、わずか2か月で婚約破棄される羽目になった。

2009年5月11日、兄の三木たかしが64歳で死去。同年1月13日、『NHK歌謡コンサート』で30年ぶりの兄妹共演を果たしてから、わずか4か月後の悲報だった。実兄の最期を看取ることは出来ず、「兄のギターで歌っていた幼い日々や、初めて兄の作品を吹き込みした時のことが、次々と甦ってきて今は言葉にできません。申し訳ありません」とFAXでコメント。その後、5月19日の通夜の席では「今年3月初めに余命の告知を受け覚悟はしていましたが、あまりにも突然でまだ受け止めることが出来ません」「私は兄に褒められたくて一生懸命歌ってきた。


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