黙阿弥
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黙阿弥

河秩B黙阿弥(かわたけ もくあみ、旧字体:默阿彌、文化13年2月3日1816年3月1日) - 明治26年(1893年1月22日)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。本名は吉村 芳三郎(よしむら よしさぶろう)。俳名に其水(そすい)。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ-)。江戸日本橋生まれ。
目次

1 来歴

2 作風

2.1 主な作品

2.2 黙阿弥調の例


3 人物

3.1 家族と門弟

3.2 安政江戸地震

3.3 「河竹黙阿弥」という名前に関して

3.3.1 「黙」の字の意味

3.3.2 「河竹」という名字



4 参考文献

5 注釈

6 脚注

7 関連項目

8 外部リンク

来歴

江戸・日本橋の裕福な商家吉村勘兵衛の二男に生まれたが、若い頃から読本芝居台本川柳狂歌の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当されてしまう。貸本屋手代となって生計をたてるようになるが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送る。これが将来の糧となる。

やがて「芳芳」の雅号で狂歌俳句、舞踊などで頭角をあらわすようになると、天保6年(1835年)にはとうとう仕事を辞めて、芝宇田川町の踊りの師匠お紋(歌舞伎役者二代目澤村四郎五郎の娘)の紹介で、五代目鶴屋南北の門下となり、勝 諺蔵(かつ げんぞう)と名を改める。そもそも抜群の記憶力があり、『勧進帳』などは若い頃から読み尽くしているので、その全科白を暗記して難役・弁慶をつとめる七代目市川團十郎後見、これで認められるようになる。天保12年 (1841年) 芝 晋輔(しば しんすけ)、天保14年(1843年)には二代目 河秩B新七(にだいめ かわたけ しんしち)を襲名し立作者となる。嘉永4年(1851年)11月江戸河原崎座顔見世狂言『升鯉滝白籏』(えんま小兵衛)が好評で注目される。 河竹黙阿弥住居跡
(浅草1-36-3)

立作者になってからもしばらくは鳴かず飛ばずだったが[注釈 1]四代目市川小團次と出逢ったことが大きな転機となる。嘉永7年(1853年)に小團次のために書いた『都鳥廓白波』(忍の惣太)は大当たりとなり、これが出世作となった。幕末には小團次との提携により『三人吉三廓初買』(三人吉三)や『小袖曾我薊色縫』(=『花街模様薊色縫』、十六夜清心)などの名作を次々に発表する。また、三代目澤村田之助には『処女翫浮名横櫛』(切られお富)、十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)には『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)などを書き、引っ張りだことなった。

慶応2年(1866年)に小團次は死ぬが、明治維新後もその筆は衰えなかった。この時代には明治歌舞伎を牽引した團菊左と不可分の作者として活躍する。この時期の代表作としては五代目尾上菊五郎に書いた『天衣紛上野初花』(河内山)、『茨木』、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)、初代市川左團次に書いた『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)、九代目市川團十郎に書いた『北条九代名家功』(高時)、『紅葉狩』、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)など、枚挙に暇がない。

生涯に書いた演目は300余。歌舞伎に西洋劇の合理性を取り入れようと試行錯誤した坪内逍遙でさえ、新七のことになると「江戸演劇の大問屋」「明治の近松」「我国の沙翁」と手放しで絶賛した。一方新七の方はというと、はじめのうちは九代目に乞われて活歴物をいくつか書いてはみたものの、その九代目が新聞記者出身の福地桜痴などと本格的に演劇改良運動に取り組み始めると、これに嫌気がさしてそろそろ作者家業もおっくうになってきた。明治14年(1881年)、團菊左のために散切物の『島鵆月白浪』(島ちどり)を書き上げると、これを一世一代の大作として引退を宣言し、さらにその名を黙阿弥(もくあみ)と改めた。

しかし黙阿弥に匹敵するような作者は当時他にはいなかった。結局黙阿弥は引退後も「スケ」(助筆)の名で事実上の立作者であり続けたのである。黙阿弥の存在はそれほど偉大だった。演劇改良運動の推進者ひとりだった依田学海は、自ら文化人を自負する漢学者だったこともあり黙阿弥を「馬鹿」と酷評したこともあったが、『新皿屋敷月雨暈』(魚屋宗五郎)で主人公の宗五郎が最愛の妹を殺されて禁酒を破り酔態に陥ってゆくくだりを目の当たりにすると、「あのように書けるものではない。天才だ!」と絶賛している。やがて演劇改良運動が活歴の失敗という形で幕を下ろすと、黙阿弥改メ古河黙阿弥(ふるかわ もくあみ)の意欲的な創作活動は以前にも増して活発になった。そしてそれは最晩年まで変わることはなかった。

明治26年(1893年)1月東京歌舞伎座『奴凧廓春風』を絶筆として同月22日、本所二葉町の自宅で脳溢血のため[2]死去した。享年76(満年齢)。浅草北清島町・源通寺に葬る。法号は釋黙阿居士[3]
作風

黙阿弥の作品の特徴としてまず第一にあげられるのが、俗に「黙阿弥調」とも呼ばれる華美な科白にある。たとえば『三人吉三』の序幕「大川端庚申塚の場」の「厄払い」と呼ばれるお嬢吉三の独白は、「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空……」と朗々と唄い上げる極めて洗練されたもので、しかも類語掛詞を駆使した七五調の句が観客を魅了する。〆句の「こいつぁ春から縁起がいいわえ」とは、実は通りすがりの夜鷹を大川に突き落として金を奪ってみたところなんと百両もあったという、とんでもない幸運を素直に喜ぶ盗賊の浮かれ具合が言い表されているのだが、ここで強盗傷害犯の悪逆さを観客に微塵も感じさせないのが黙阿弥の真骨頂である。

黙阿弥が特にその本領を発揮したのは世話物で、特に盗賊を主人公に添えた一連の演目は「白浪物」として一つの分野を確立するまでに至った。黙阿弥の白浪物に登場する悪人は、いずれも小心者だったり因果に翻弄される弱者であり、そこがふてぶてしい極悪人が最後に高笑いするような大南北の作品と大きく異なる点である。

黙阿弥はまた、現実的な内容をあくまでも写実的に、それでいてどこまでも叙情的に描くことに秀でていた。黙阿弥の演目の多くは市井の人、それも社会の底辺で喘ぎながら、毎日を綱渡りのようにして暮らしをしている者を主人公としている。それでいて下座音楽浄瑠璃が多用されているため、全体の雰囲気が陰鬱さに包まれることがなく、情緒豊かで印象的な叙事詩に仕上げられている。

明治以後は『船弁慶』や『紅葉狩』などの松羽目物の作詞も行った。晩年には自作の演目を全集としてまとめた『狂言百種』を発行している。
主な作品

旧暦の年月は漢数字で表した。

本外題別外題通称初演劇場分類
  みやこどり ながれの しらなみ
都鳥廓白浪』  しのぶの そうた
「忍の惣太」1854年4月
安政元年三月江戸
河原崎座世話物
白浪物
  つたもみじ うつのや とうげ
蔦紅葉宇都谷峠』  ぶんや ごろし  うつのや とうげ
「文弥殺し」 「宇都谷峠」1856年9月
安政三年九月江戸
市村座世話物
 
  ねずみこもん はるの しんがた
鼠小紋東君新形』  ねずみこぞう
「鼠小僧」1857年2月
安政四年正月江戸
市村座世話物
白浪物
  あみもよう とうろの きくきり
『網模様燈籠菊桐』  こざる しちのすけ
「小猿七之助」1857年8月
安政四年七月江戸
市村座世話物
白浪物
  こそで そが あざみの いろぬい
小袖曾我薊色縫』  さともよう あざみの いろぬい
『花街模様薊色縫』  いざよい せいしん
「十六夜清心」1858年3月
安政五年二月江戸
市村座世話物
白浪物
  くろてぐみ くるわの たてひき
黒手組曲輪達引』  くろてぐみの すけろく
「黒手組の助六」1858年4月


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