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この項目では、中華人民共和国の行政区画について説明しています。かつて存在した行政区画については「黒竜江省 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
黒竜江省
略称: 黒 (.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: H?i)
簡体字K?江
繁体字K龍江
?音 H?ilongji?ng[ヘルプ/ファイル]
カタカナ転記ヘイロンチャン
省都ハルビン市
最大都市ハルビン市
省委書記張慶偉(前河北省省長)
省長王文濤(前済南市委書記)
面積460,000 km2 (6位)
人口 (2020年)
- 人口密度31,850,088 人 (20位)
83 人/km2 (26位)
GDP (2020年)
- 一人あたり13,698.5 億元 (25位)
43,009 元 (30位)
HDI (2017年)0.82 (高) (10位)
主要民族漢族 - 95%
満族 - 3%
朝鮮族 - 1%
モンゴル族 - 0.4%
回族 - 0.3%
地級行政区13 個
県級行政区128 個
郷級行政区1284 個
ISO 3166-2CN-HL
公式サイト
⇒http://www.hlj.gov.cn/
聖ソフィア大聖堂 (ハルビン)
黒竜江省(こくりゅうこうしょう、中国語:K龍江省、?音:H?ilongji?ng Sh?ng、英語: Heilongjiang)は、中華人民共和国の省の一つ。省都はハルビン市。吉林省の北、内モンゴル自治区の東に位置する。中国において最も北東に位置し、北部はアムール川(黒龍江)をはさんでロシアと国境を接している。 北はアムール川を隔ててロシア連邦極東連邦管区のハバロフスク地方、アムール州、ユダヤ自治州と接し、東はウスリー川を隔ててロシア極東連邦管区の沿海地方と接する。南は中国の吉林省、西は内モンゴル自治区のフルンボイル市と接す。 人口の90%超が漢族でその他に満洲族、モンゴル族、朝鮮族などが住む。 中国の重要な食糧生産基地のひとつでもあり、良質な黒豆(黒大豆)、大豆、小豆が栽培されている。地級行政区画 先秦時期には、粛慎(勿吉)、?貊、東胡の三大民族系統の先住民がおり、粛慎は漢代には?婁、魏晋には勿吉、隋唐には靺鞨、金代には女真と称し、清代になって満洲の名が起こった。 黒竜江地区に最初に樹立された政権は?貊系の夫余国で、後に高句麗が分かれた。唐には渤海が起こり、また北方には室韋都督府、黒水靺鞨都督府が置かれた。清に滞在したイエズス会士、Jean-Francois Gerbillon(1697年?1782年)が作成した清国全図のうち、アムール川流域の拡大図。アムール川中流をまたぐ中央の部分が黒竜江将軍、アムール下流から沿海州に至る右の部分が吉林将軍 契丹は渤海を滅ぼした後、東丹国を樹立した。金代は会寧府(現在のハルビン阿城区白城)に建都し、後に燕京(北京付近)に遷都した。元代には開元路、水達達路が置かれて遼陽行省に属した。明代には奴児干都指揮使司が置かれて女真族を間接支配し、清初にはニングタ大将軍(寧古塔昂邦章京)が置かれ、後に吉林に移り、吉林将軍と改称した。さらに黒竜江将軍が増設され、黒竜江流域の広大な地区を管轄した。 1680年代に清朝はロシア帝国とネルチンスク条約を結び、ロシアとの国境を画定したが、1858年の?琿(アイグン)条約と1860年の中露北京条約により黒竜江以北、ウスリー川以東の領土を失った。 20世紀初めまでに漢族が大量に移住した黒竜江への行政管理の強化を図った清朝は1907年(光緒33年)4月20日、黒竜江将軍を廃止し新たに黒竜江行省を設置した。設置当初の全省の面積は約57万平方キロメートル、人口は約127万人であり、省会はチチハル城に設置され、下部に府、庁、県、道の行政区画が設置された。翌年8月にはメルゲン副都統(墨爾根副都統)、フルンボイル副都統(呼倫貝爾副都統)、黒竜江(?琿)副都統が橋となりフルンボイル処、アイフン処はそれぞれフルン兵備道、アイフン兵備道と改称された。1911年(宣統3年)には全省は3道(興東
地理
歴史
1912年、中華民国が成立すると黒河府、興東道が廃止とされ呼瑪庁、蘿北庁が設置され、?琿道は黒河に移転し黒河道と改称、呼倫道は叛乱を理由に廃止とされた。