黒鷲旗全日本バレーボール選手権大会
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黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会競技バレーボール
開始年1952
主催
日本バレーボール協会
毎日新聞社
チーム数男女各16チーム
加盟国 日本
前回優勝男子:サントリー(10回目)
女子:岡山(初優勝)
最多優勝男子:堺(14回)
女子:ユニチカ(19回)
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黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会(くろわしきぜんにほんだんじょせんばつバレーボールたいかい)は、毎年5月初めに日本大阪府大阪市で行われるバレーボール大会である。主催は、日本バレーボール協会毎日新聞社大阪本社所管事業)。主管は大阪府バレーボール協会。大会名の通り「黒鷲旗」と呼ばれる優勝旗を懸けて争う。

日本のバレーボール大会では、平年各クラブチームでの戦いの1年の総決算(大抵は11月下旬のVリーグ開幕からこの大会終了までが各クラブ所属でプレーし、それ以後は代表強化期間である)となる。しかし2024-25シーズンからSVリーグファイナルを5月開催により開催存続が危ぶまれている[1]
創設の経緯

創設当時のバレーボールは、まだマスコミに取り上げられる機会も少なく[2]、これを憂いた日本バレーボール協会の幹部・高橋哲雄[2]、当時盛んだった都市対抗野球大会を見て、バレーを都市対抗のように盛んに出来ないものかと[2]、飲み友達だった毎日新聞大阪本社のバレー担当記者だった大村至信に働きかけ[2]、関西でバレーの大会の創設が決まった[2]。当時の日本バレーボール協会の幹部はほとんど大阪に居住していた[2]。高橋が「都市対抗野球の優勝旗が『黒獅子旗』なら、バレーは『黒鷲旗』にしよう」と提案した[2]。1951年夏から具体的な準備が始まり、1952年元旦の毎日新聞一面に「毎日新聞大阪本社70周年記念事業として第一回大会を開く」と社告が掲載された[2]松平康隆は「私もあの広告を見て、バレーをもう少し続けてみようという気になりました。あれを見なかったらバレーと長く関わることはなかったと思います」と述べている[2]。当時、鐘紡倉紡東洋紡、日紡(ユニチカ)といった紡績会社が女子バレーに力を入れ、いずれも大阪に本拠を置いていたことから[2]、大阪ならバレーの大会を盛り上げることが出来るという計算があった[2]
歴史

1952年 - 毎日新聞創刊70周年記念事業として、『全日本都市対抗バレーボール優勝大会』の名称で第1回大会が開催される。東京で人気を博していた、都市対抗野球大会に対抗して作られた[2]。多くの観客が収容できる体育館は当時はなく[2]、テニスの大会終了後、大阪プールのプールの水を抜き、土を入れたコートを使用した[2]。出場チームは男女各16チーム。9人制バレーボール大会であった。

1953年 - 第2回大会から会場を大阪府立体育館(現在の大阪府立体育会館、エディオンアリーナ大阪)に移す[2]

1957年 - 男子優勝チームの八幡製鉄が台湾に派遣される。

1962年 - 第11回大会から6人制大会に移行[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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