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やノートページでの議論にご協力ください。黒電話(くろでんわ)は、黒い筐体と送話器一体の受話器を特徴とする電話機の総称である。日本では一般的に、1933年(昭和8年)以降に逓信省、1952年(昭和27年)以降に日本電信電話公社(以下、一部を除き「電電公社」と略)によって制式化されて一般加入電話契約者に提供された、3号・4号・600形および601形の各電話機を「黒電話」と総称する。ダイヤルパルス方式の電話機や回転ダイヤル式電話機の通称として用いることもある。
歴代の黒電話
3号電話機逓信省が3号電話機を開発するにあたって手本にし模倣した、ヘンリー・ドレフュス設計の電話機 (Model 302 telephone)
3号電話機は、1933年(昭和8年)に逓信省によって日本国内で制式化・提供開始された。
もとはアメリカ合衆国の電話会社であるAT&T向けに、工業デザイナーのヘンリー・ドレフュス(Henry Dreyfuss、ヘンリー・ドレイファスとも) が設計した黒い電話機のデザインを模倣したもので、ほぼ同じ外観で製造された。以降、4号、600形と続く日本の「黒電話」の嚆矢となった。
筐体は合成樹脂の一種である黒いベークライトとなり、送話器と受話器が一体となった握り手形の送受話器が採用された。丸みを帯びた箱状の本体に自動式機能が納められ、ダイヤル部は曲線を用いて突出させている。フック部分も曲線を多用して細くまとめられており、2号のヨーロピアン・デザインの面影も残る。
内部は自己の送話器から入った音声が受話器に流れ込む「側音」を防止する側音抑制回路が採用された。送話器には防塵・防湿器が取り付けられた。これにより、線路上の仕様はそのままでも、実際の伝送性能は2号より格段に向上した。
回転盤中央の紙には、縦書きで
受話器
を外してか
ら?轉盤を右
へ指止め迄?
してお放し
なさい
という文字が書かれている。?轉は後年に回転に改められた。
共電式は、自動式からダイヤルを取り除き、オフフック呼び出し用の回路を備えただけで、ほぼ同一設計である。のちの電電公社網の完全自動化の後も、着信専用の電話機として、主に構内電話に使用されていた。
壁掛け型は、通話者が本体にへばりついて会話する必要がなくなったが、耐衝撃性に劣るベークライトの筐体のため、落下して破損する機体が続出した。
3号M磁石式電話機
3号電話機の採用時は、なお局給電のない加入電話回線もあり、これの質的改善を目的として、3号M磁石式電話機が採用、提供された。自動式・共電式と同じ送受話器であり、基本的な回路設計も共通である。送受話器受けの取り付け方向により卓上・壁掛どちらでも使用できる。呼び出し用の手回し発電機と、線路用電池とを備えているため、本来のダイヤル座部分が角ばった台形の箱のような、600形に近いデザインとなっている。
代用3号電話機(国産)
太平洋戦争末期、米軍による日本本土空襲の結果、都市部で大量の電話機が喪失した。その復旧に際して、物資欠乏状態でもあり、制式の3号電話機のみでは、製造・供給が追いつかなくなった。そこで、旧逓信省(このときは戦時統合体制により一時的に消滅)網以外の地域電話・構内電話用として、電機メーカーが製造し、在庫させていた電話機から、3号相当の性能があるものを代用3号電話機として加入者に提供した。その中には、沖電気工業イ-666形自動式壁掛け電話機や、富士通信機製造の富士形自動式壁掛け電話機など、制式の3号よりも洗練されたデザインのものもあった。その多くは、戦後も引き続き使用され、電話網復旧のためさらに提供数は増えた。
木製3号電話機
代用3号電話機と同じく、太平洋戦争末期の、無差別爆撃による電話機の大量焼失と物資欠乏状態、さらに兵役による工業技術力の低下から、筐体を国内で自給でき、かつ工作の容易な木製とした3号電話機が登場した。木製筐体は黒く塗装された。この頃になると、新たに製造された戦時設計の電話機は他の工業製品同様粗製濫造で、通話も困難なだけではなく、絶縁不良から発火等の危険を伴ったものも多く存在していたと思われる。しかし、この木製3号電話機も、戦後の電話機不足から、修理・補修によって使われ続けたものが多い。ただし、戦争末期のごく短期間の製造であるため、絶対数は少ない。現存機は、埼玉県の個人宅にて修理され稼働する状態で保存されているものや博物館所蔵機など、数台が確認されているが、やはり数は少ないとされている。
代用3号電話機(輸入)
太平洋戦争終結後は、同時に冷戦の始まりでもあり、アメリカ合衆国はのちの「トルーマンドクトリン」の雛形として、日本の復興を強く後押しした。その1つが、電話網の復旧と更なる増強である。しかし、日本の制式電話機である3号電話機だけでは、特に都市部の需要を満たせないことは明らかだった。そのため、連合国の電話網で使用されている電話機の中から、3号相当の性能があるとするものに、改造で2号ダイヤルを取り付け、代用3号電話として提供した。
その後の3号電話機
3号電話機は戦前期の採用だが戦後復興期の大量生産により、4号登場後も著しい加入回線数の増加により、既存の電話機の更新が滞ったため、戦後も長らく日本の電話の標準的スタイルとなり続けた。機能的にも、(自動式であれば)現在の交換網に接続してもほぼ問題なく使用できるため、未だ現役で使用されている個体数も少なくないとされている。
4号電話機4号電話機
4号電話機は、1950年(昭和25年)に電気通信省によって制式化され、1952年(昭和27年)に提供が開始された。1949年(昭和24年)の逓信省二分化によって生まれた電気通信省にとって、最初で最後の制式電話機となった。
岩崎通信機・沖電気・東芝・日本電気・日立製作所・富士通信機製造(現 : 富士通)(50音順)の6社が約400万台製造した。筐体・送受話器・回転盤・文字盤・内部の電磁石など、主要部品には製造した会社のマークが描かれている。
送話器・受話器の振動板をジュラルミン製として軽量化し、音声周波数帯での感度や均一性を改良している。この伝送特性の良さから「ハイファイ電話機」と呼ばれた。2400対の直径0.4ミリメートル芯線の紙絶縁ツイストペアケーブルを短距離ならば使用でき、回線増強をより容易にした。これが結果的に、全国自動ダイヤル化を推し進めた。
回転盤中央の紙には、当初は
送受器を
はずしてから
回転盤を指とめ
まで回して必ず
指をお放し
ください
のちに黄色地に
受話器を耳にあてて、
ツーという音(発信音)を
確かめてからダイヤルを
まわしてください。
という文字が書かれている。紙の周辺部には黒地に白抜きで0 - 9の数字が入っているように見えるが、実際には数字は紙を覆っている透明のカバーに描かれている。
木製以外では初めて黒以外の塗装が採用され、.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{} 若草、 うすねず、 象牙、 えんじ、 ふじ、 あおたけ、 桃、そして 黒の8色がラインアップされた。