黒軍_(ハンガリー)
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黒軍の旗

黒軍(ハンガリー語: Fekete sereg[?f?k?t? ???r??] 「黒き軍団(ないしは連隊)」)[1]は、ハンガリー国王マーチャーシュ・コルヴィヌスに仕えた軍隊に与えられた歴史上における共通の名称である。その祖先である初期傭兵軍の中核はマーチャーシュの父であるフニャディ・ヤーノシュの時代である1440年代初頭に出現している。

ハンガリーにおける黒軍の年代は伝統的に1458年から1490年までを含む。黒軍の人間は全期間にわたって金で雇われた傭兵と同じように戦い、純粋に戦場の芸術に身を捧げた。この時代のほとんどのヨーロッパの傭兵は危機の時期に一般の住民から徴兵され、兵士は一年のほとんどをパン屋、農民、煉瓦職人、その他として働いた。黒軍はこの時代に設置された傭兵の中では非常に巨大なものであり、彼等は オーストリアウィーン (1485年)、モルダヴィアの一部を占領した[2]

軍の中核は、元来は8千から1万人の傭兵であり、後には持続的に3万人の規模に膨れ上がれ、侵略期間はその2倍となった。兵士達は主にボヘミア人、ドイツ人セルビア人ドイツ人であり[3]1480年以降はハンガリー人であった。黒軍の各5番目の兵士は歩兵部隊の中で火縄銃を有していたが、この比率は当時では尋常ではなかった。中世の銃器は高価であったため銃兵をそれ以上増加させることは不可能であった[4]。軍隊の主力は歩兵、砲兵重騎兵であった。重騎兵の機能は輝く甲冑を身にまとった歩兵と砲兵を守備することであり、その一方で他の部隊は 適当に配置され、敵軍を強襲することで驚かせた。黒軍の重要な勝利の一つにハンガリーがオスマン帝国を撃破したブリードフィールドの戦いがある。マーチャーシュ・コルヴィヌスの死は黒軍の終焉を意味していた。次の国王ウラースロー2世は黒軍を維持する費用を許可しなかったからである。
近代的で巧みに組織化された徴兵制度

マーチャーシュ・コルヴィヌス統治下における最初の年に、“祖父” ジギスムント・フォン・ルクセンブルクの遺産としての軍隊の徴募の構成を設置した。その軍の主力は貴族の連隊とMilitia Portalis(荘園の義勇軍)によって供給されて統制される兵士であり[5]、この内訳は20ごとの農奴の地区(portae)にて貴族が射手隊を高めて国王に貸与することが命じられたと説明されている。後にこの義務は再考され、上限は33の領地につき1人の射手隊から100の荘園につき3人の射手隊へと上げられた。これ等は農奴を有していなかったが、貴族が国家の争いの際には地方の伯爵として参加しなければならない領地を有していた。マーチャーシュの初期の統治下での傭兵の明確な数は示されていない(1463年のJajce城包囲戦の際にJanus Pannoniusは傭兵軍の数について言及していない)。

非常時の場合、実際の王には急に民衆を動員する力を有する最後の機会が存在した。各貴族は、その社会的階級に関係なく、自身の武器と共に参加することを余儀なくされ、国王の私的な衛兵の皆が利用可能となった。衛兵達は何時でも召集されて15日間は戦うことが許されず、彼等の戦場での行動はハンガリー国境内に制限された。いわゆるinsurrectio (貴族の反乱) は徴兵の観点から時代遅れとならざるを得なかったが、それでも1809年のRaabの戦いまで効果を発揮した。その主な理由として金を払うことで貴族を参加させることが残っていたからである。しかしマーチャーシュがその参加する数を次第に減らして大軍の中に呼び入れたことから衛兵は次第に黒軍の中で目立った働きのない軍団に編入された[6]

1459年セゲドの法でマーチャーシュは20の農奴を射手隊に加入させる基礎を復活させた(この時は人数に基礎をおいている)。男爵のmilitia portalis は最早、地方の貴族の連隊に数えられていなかったが、伯爵の軍隊(指揮官は国王が任命した)に編入されて同様に国外に送ることが出来た。マーチャーシュは同時にinsurrectio's の奉仕する期間を15日から3か月に上げた[7]
最初の傭兵から定期的に有給を払われた兵士まで

15世紀の軍隊規模の比較[8]
国統治者軍の規模展開調査の対象となった年
イングランド王国エドワード1世7004287000000000000?28,700フォールカークへの遠征11298年
フランス王国フィリップ4世7004447000000000000?44,700イングランド-スコットランド戦争21340年
ヴェネツィア共和国統領 トンマーゾ・モチェニーゴ(en)7004360000000000000?36,000軍事による平和315世紀
ミラノ公国フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ(en)7004300000000000000?30,000マクローディオの戦い(en)41427年
ハンガリー王国マーチャーシュ・コルヴィヌス7004280000000000000?28,000ウィーン包囲51486年
オスマン帝国メフメト2世7005100000000000000?100,000ベオグラード包囲戦 (1456年)(en)61456年
サヴォイア公国アメデーオ6世・ディ・サヴォイア(en)7003300000000000000?3,000ガリポリ71366年

1 3,000 の重騎兵と25,700 以上の歩兵から成る
2重武装の兵士と16,700 の軽装の兵士から成る
33,300艘の船の乗組員[9]
4見積もり[10]
5(2/3 が騎兵)
6概数
7300 がヴェネツィアの海賊[11]クシー領主アンゲラン7世指揮下のイングランドの傭兵[12]

これ等の努力が聞こえるにも係わらず、黒軍が発揮される方法は幾つかの点で管理されていない。1458年にマーチャーシュは己の競争相手に対抗して自己の立場を強化するためにボヘミア国王イジーから500の騎兵を借り入れた。これは貴族の連隊の廃れから大金で能力を高められた兵士への転換点となった(この場合はフス派の残党であり、その戦術は後に黒軍に採用された)[6]。マーチャーシュは適応する熟練兵を必要としており、そのためヤン・イスクラ率いるボヘミア地方からの脱走兵の軍団を選んで定住させたが、イスクラはそれ以前から既に北部で日々の略奪品を求めて略奪を働いていた。イスクラは1463年のen:Peace Treaty of Wiener Neustadtで王室の王室からの特許状を確約して2つの城(?oimu?とLipova及びその兵士には25.000ドゥカスの給料が支払われた。翌年にイスクラはオスマン帝国と戦うためにボスニアに赴いた[13]。また1462年にマーチャーシュは自身の馬係に仮にヴェネツィア共和国が約束通りに費用を負担してくれるのなら(ハンガリーにとっては不運にもこの財政援助は年々延長された)、オスマン帝国に対する聖戦を始めるには8000の騎兵が必要であるとの言葉を発している。最初の主要で大規模な傭兵の徴兵が現れたのはボヘミア戦争中(1468年 ? 1478年)であるが、そこではマーチャーシュの親衛隊の中核となった6000から8000の武装した兵は黒軍に組み込まれたものである(黒軍という綽名の起源はこの時代に出た可能性が考えられる)[14]
黒軍の観点とその指揮官

軍隊と綽名が混合されたことに関する幾つかの推測が起きる。現にマーチャーシュ死去までに"黒色" に帰する言及は記録されていない。黒軍に関しては、マーチャーシュ没後に給料が払われなかった悪名高き軍隊の残兵が既に国境地帯の村を既に略奪した時に書かれた覚書からわずかに照会されているだけである。主君への喪に服す印として自身の肩に黒い筋を身にまとっていたという一つの推論が提示される。イタリアの中世の歴史家であるBonfiniが唯一、"屈強な" 熟練兵が隊列を組んでいたという言葉を用いただけである。他の推測は黒軍の著名な指揮官であるFrantisek Hagの黒い胸当てに因んで名付けられたというものである。三番目の推測は黒軍が別の指揮官であるJohn Haugwitz(その綽名は既に遠征中の英雄的な認識から冠せられていた)の“黒”の形容詞から採用したというものである。


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