黒船来航
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2012年4月)
ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子(場所不明)

黒船来航(くろふねらいこう)は、嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。
背景
アメリカ合衆国のアジアへの進出

産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジア中国大陸への市場拡大を急いでいたが、のちにそれは熾烈な植民地獲得競争となる。1494年のトルデシリャス条約で定められた子午線(紫)と1529年のサラゴサ条約で定められた、モルッカ諸島の子午線(緑)

しかし、すでに15世紀には地球球体説を基にヴァスコ・ダ・ガマ等の航海によって、我々の住む大地すなわち「地球球体である」ということを理解していた欧州の国々は、クリストファー・コロンブスによる新大陸発見に伴いトルデシリャス条約(1494年6月7日)やサラゴサ条約1529年4月22日)を結び、「(当時の)子午線の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属する」と取り決めていた。その後、大航海時代が訪れるとイギリスフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国がポルトガルやスペインの衰えに伴って境界線にあたる土地へ進出し、国威の興隆や戦争などに伴う各種条約によって各地を獲得していた。日清戦争が始まる以前、1885年時点の植民地[要出典]

幕末当時は、市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インド東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。

当時の人口は、アメリカ合衆国が1833年に約1,416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2,760万人であった[1]

アメリカは1833年シャムマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本ととの条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、清国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年弘化3年)に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。
捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保

産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油ランプの灯火として、おもにマッコウクジラ鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で捕鯨を盛んに行っていた。日本近海ではジャパン・グラウンドと呼ばれる伊豆諸島小笠原諸島付近、カムチャツカ・グラウンドと呼ばれるカムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国東海岸を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行うのが普通であった[2]。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。

加えて難破船の問題もあった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務のひとつであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。
米墨戦争の影響若狭湾沖を中心とする大圏図法

アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - 1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。これによりアメリカは太平洋国家となり、巨大市場であるとの貿易開拓が国家目標となった。アメリカ西海岸から中国に至る最短航路(大圏コース)は、西海岸から北上し、アリューシャン列島千島列島沿いに南下、津軽海峡対馬海峡を通過して上海付近に至るものである[† 1][3]

このため、津軽海峡に面した松前(実際に開港したのは箱館)に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は組織規模維持のため東インド艦隊の役割を拡大する必要が生じた[4]
ペリー来航以前詳細は「幕末の砲艦外交」を参照

1791年(寛政3年) - 冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人。

1797年(寛政9年) - オランダフランス革命戦争でフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている[5][† 2]

1830年(天保元年) - 小笠原諸島父島ナサニエル・セイヴァリーが上陸。

1835年(天保6年) - 大統領アンドリュー・ジャクソンは、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命使節とし、清・日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジアに送り届けるため、東インド艦隊が編成された[6]

1837年(天保8年) - アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に渡航。1808年に長崎イギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した(モリソン号事件)。

1842年(天保13年) - アヘン戦争が敗れ、イギリスの強さを知った幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めた[7]

1844年(天保15年)7月29日、オランダ政府はオランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨をあらかじめ商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日には軍艦長ハーエス・コープスがこれを届けた。親書は江戸幕府が鎖国を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた[8]

1845年(弘化2年) - 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、船長マーケイター・クーパー浦賀への入港を許可され浦賀奉行と対面した。

1846年(弘化3年)閏5月 - アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。

1846年(弘化3年) - アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。

1848年(嘉永元年) - アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。

1848年(嘉永元年) - ラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国。

1849年(嘉永2年) - 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。このとき、グリンの示した「毅然たる態度」が、のちのペリーの計画に影響を与える。

オーリックに対する日本開国指令と解任

1851年5月29日(嘉永4年4月30日)、大統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使としてその任務[9] を与え、1851年6月8日に蒸気フリゲートサスケハナ」は東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、代将マシュー・カルブレース・ペリーにその任が与えられた[† 3][10]
嘉永6年の来航1853年7月14日、ペリー提督一行初上陸の図。嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航
随行筆記した画家ヴィルヘルム・ハイネによるリトグラフマシュー・ペリー

ペリーは、海軍長官ケネディから1852年11月13日(嘉永5年10月3日)付で訓令を受けている。そのおもな内容は、対日使命遂行のため広範な自由裁量権の行使、日本沿岸および隣接大陸や諸島の探検をし、行く先々の諸国や諸地方の社会・政治・商業状況、特に商業の新しい対象について、できうる限りの情報を収集することなどである[11]
ペリーの計画

ペリーは日本開国任務が与えられる2年近く前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた[12]。そこで彼は、以下のように述べている。

任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、そのうち3隻は大型の蒸気軍艦であること。

日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。

中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」ということ。

オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべきである。

日本開国任務が与えられると、計画はさらに大がかりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。


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