この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "黒田長清"
凡例黒田 長清
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛文7年6月26日(1667年8月15日)
死没享保5年2月23日(1720年3月31日)
改名平八(幼名)→長清
戒名龍湫院殿瑞林道祥大居士
墓所東京都港区南麻布の天真寺
福岡県直方市山部の雲心寺
和歌山県高野山奥の院
官位従五位下、伊勢守
幕府江戸幕府
藩筑前直方藩主
氏族黒田氏
父母父:黒田光之、母:市松姫(小笠原忠真の娘)
兄弟綱之、綱政、長清
妻正室:賀留(小笠原長勝三女)
継室:伊予(小笠原長勝五女)
側室:宮井氏
子利(佐竹義峯正室)、男子、継高
テンプレートを表示
黒田 長清(くろだ ながきよ)は、筑前直方藩(福岡新田藩)の藩主。黒田光之の五男。 寛文7年(1667年)6月26日、江戸麻布の藩邸に生まれた。元禄8年(1688年)、兄の綱政が本家の福岡藩を継いだとき、筑前鞍手郡内に5万石を分与され、福岡新田藩を立藩した。 綱政の死後、本家の家督はその子・宣政が継いだが、宣政は生来から病弱で政務を執れず、嗣子もいなかった。このため、長清の長男・継高がその養嗣子となり、長清は宣政の後見人となった。享保5年(1720年)2月23日、江戸麻布の藩邸にて死去した。享年54。 継高は本家を継いでおり、他に嗣子が無かったため、直方藩は廃藩となり、その所領は福岡藩に還付された。長清の供養塔が高野山奥の院にあるが荒廃し、現在は無残な姿となっている。
略伝
表
話
編
歴
直方黒田家第4代当主(1688年 - 1720年)
戦国末期まで
(宗満
高満
宗信
高教
高宗
高政)
重隆
職隆
孝高
近世以降
長政
忠之
光之
綱政
宣政
継高
治之
治高
斉隆
斉清
長溥
長知
長成
長礼
長久
長高