日本の政治家黒田 長成くろだ ながしげ
黒田長成侯爵写真(近世名士写真)
生年月日1867年6月7日(慶応3年5月5日)
出生地 日本 筑前国福岡(現福岡県福岡市)
没年月日 (1939-08-14) 1939年8月14日(72歳没)
死没地 日本 東京府
出身校ケンブリッジ大学キングス・カレッジ
称号従一位
勲一等旭日桐花大綬章
侯爵
配偶者黒田清子(公爵島津忠義の長女)
親族黒田長礼(長男・侯爵)
黒田長和(弟・男爵)
黒田長敬(弟・子爵)
第4 - 8代貴族院副議長
在任期間1894年10月6日 - 1924年1月16日
枢密顧問官
在任期間1924年1月14日 - 1939年8月14日
貴族院議員
在任期間1892年4月1日 - 1939年8月14日
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黒田長成(1913年)
黒田 長成(くろだ ながしげ、慶応3年5月5日(1867年6月7日) - 昭和14年(1939年)8月14日)は、日本の政治家で華族(侯爵)。号は桜谷。父は筑前福岡藩の最後の藩主黒田長知。母は側室・隅田氏。妻は公爵島津忠義の娘清子。後嗣は嫡男・黒田長礼。黒田家17代目の当主である。位階は従一位、勲等勲章は勲一等旭日桐花大綬章。 筑前国(現・福岡県)出身。1867年6月7日(慶応3年5月5日)、第12代福岡藩主黒田長知の長男として生まれた。幼名は幸千代。1878年(明治11年)12月28日、父長知の隠居により、12歳で黒田家家督を相続した。 明治維新後、公卿・大名はすべて東京で生活するよう命じられており、長成も東京赤坂の黒田本邸に移り住んだ。1878年(明治11年)に慶應義塾へ入学。慶應義塾夜間法律科教授・金子堅太郎の助言により1880年(明治13年)に慶應義塾を中退し、英国ケンブリッジ大学への留学準備を始める[1]。1884年に侯爵を授けられる。1885年(明治18年)、学友・添田壽一を随えてケンブリッジ大学キングス・カレッジに入学し、1887年12月学士号(普通学位)を取得し、卒業した[2]。 1889年、宮内省の式部官に任じられるが翌1890年に依願免官。1892年4月1日には満25歳に達したために貴族院議員となり(侯爵議員)[3][4]、かつての福岡藩の藩校で旧制中学として再興された修猷館の第3代館長となる[5]。1894年から1924年までの約30年間、貴族院副議長を務めた。1905年、副島種臣死去の後を継けて、東邦協会の会頭となった。1908年12月11日、麝香間祗候となる[6]。1924年に枢密顧問官、議定官に任じられ、以後終生その官にあった。1939年に薨去。享年73。墓所は、東京都港区南青山の青山霊園。毎年、8月14日の命日には小田原市にある旧黒田家別邸清閑亭にて、長成侯爵を偲ぶ桜谷忌が催されている。 万年副議長と呼ばれるほど、貴族院副議長を30年の長きにわたり務めた。故に幅広い交友関係があり、旧福岡藩士出身の政治家の金子堅太郎、明石元二郎、栗野慎一郎など、華族出身の政治家、蜂須賀茂韶、徳川家達、近衛篤麿、西園寺公望、浅野長武、有栖川宮威仁親王など、歴史家の藤井甚太郎、漢詩人の中島利一郎、歌人の植松有経 長成は明治天皇、大正天皇の信頼厚く、黒田家伝来の名宝刀の『菊一文字(菊御作、昭和天皇即位の礼の際に用いられた)』を1902年(明治35年)の大日本帝国陸軍・福岡佐賀演習行啓の折、明治天皇に献上し現在は御物として保管されている。近年、その黒田家で作られた元の拵えと推定される物が発見されている(金梨子地藤巴紋散蒔絵鞘糸巻太刀拵(きんなしじふじともえもんさやちらしまきえいとまきたちこしらえ))。 豊臣秀吉を顕彰する豊国会
経歴
逸話
書が大変得意であったため、黒田家の菩提寺、福岡市の崇福寺や日本三住吉の住吉神社、水鏡天満宮など、日本各地の数多くの神社仏閣にも揮毫している。
東京都港区赤坂の黒田本邸(現存せず、梅の名所として知られた。)は広大で、庭の池に来る雁を鷹狩する趣味があった。息子の長礼は狩りではなく鳥そのものに興味を示し、後に鳥類学の大家となった[7]。このほか福岡市中央区浜の町(福岡城本丸武具櫓等を移築し、巨大な御殿屋敷であったが戦災で消失。跡に碑が建立されている)、小田原市(現・小田原邸園交流館 清閑亭)、沼津市(皇室の旧沼津御用邸近くにあったが、現存せず)、大磯(現・元湯・陣屋、 秦野市鶴巻温泉。三井財閥によって移築された)などに多くの別邸をかまえていた。また黒田家は専用の鴨場をいくつか持っており、現在の羽田空港の敷地は元黒田家の「羽田鴨場」であった。 妻は島津清子(1871年4月27日 - 1919年2月15日)[8][9] 、息子は「日本鳥学の父」と呼ばれた黒田長礼侯爵、孫は山階鳥類研究所所長黒田長久。
家族