黒田清隆
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画家・貴族院議員の「黒田清輝」とは別人です。

日本政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}黒田(くろだ) 清隆(きよたか).mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}K田 C隆󠄁

生年月日1840年11月9日
天保11年10月16日
出生地 日本薩摩国鹿児島郡新屋敷通町
(現・鹿児島県鹿児島市新屋敷町)
没年月日 (1900-08-23) 1900年8月23日(59歳没)
死没地 日本東京府
前職武士薩摩藩士
陸軍軍人
所属政党無所属
称号従一位
大勲位菊花大綬章
勲一等旭日桐花大綬章
勲一等旭日大綬章
陸軍中将
伯爵
配偶者黒田清
黒田滝子
子女榎本梅子
伊地知竹子
黒田清仲
親族黒田清行(父)
榎本武憲(娘婿)
黒田清(養孫)
榎本武英(孫)
黒田清揚(曾孫)
サイン
第2代 内閣総理大臣
内閣黒田内閣
在任期間1888年4月30日 - 1889年10月25日
天皇明治天皇
内閣総理大臣臨時兼任
内閣第2次伊藤内閣
在任期間1896年8月31日 - 1896年9月18日
天皇明治天皇
第6代 枢密院議長
在任期間1895年3月17日 - 1900年8月25日
第3代 逓信大臣
内閣第2次伊藤内閣
在任期間1892年8月8日 - 1895年3月17日
第3代 農商務大臣
内閣第1次伊藤内閣
在任期間1887年9月17日 - 1888年4月30日
その他の職歴
第3代 開拓長官
1874年8月 - 1882年2月
第2代 開拓次官
1870年5月9日 - 1874年8月
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黒田 清隆(くろだ きよたか、旧字体:K田 C隆󠄁[注釈 1]1840年11月9日天保11年10月16日〉- 1900年明治33年〉8月23日)は、日本陸軍軍人政治家[1]1888年(明治21年)から1889年(明治23年)にかけて第2代内閣総理大臣を務めた[1]。陸軍軍人としての階級陸軍中将栄典従一位大勲位伯爵通称は仲太郎、了介。
概要

薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。しかし薩摩閥の最有力者であることには変わりなく、実質的な首相選定者である元老の一人となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。1900年に死亡したため、19世紀に亡くなった唯一の内閣総理大臣である。
生涯
生い立ちと幕末の活動

天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城新屋敷通町(現在の鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士[2]・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。なお、明治期に子爵になった黒田清綱の家(記録奉行や教授を輩出していた。代々小番。)と同族であるが、遠縁であるという。

幕臣・江川英龍に学び、長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝を受けている。

文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。
戊辰戦争榎本武揚助命嘆願のため剃髪した黒田(左)

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、北陸道鎮撫総督・高倉永?の参謀に、山縣有朋とともに任命され、鯨波戦争に勝利した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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