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をお願いします。(2020年5月) 凡例黒田 清綱
黒田清綱
時代江戸時代(幕末) - 大正時代
生誕1830年4月13日(天保元年3月21日)
死没1917年(大正6年)3月23日
別名通称:新太郎・嘉右衛門・嘉納、雅号:滝園
墓所東京都港区の長谷寺
藩薩摩藩
父母父:黒田清直、母:お守(小倉氏)
子庶子:清秀、養嗣子:黒田清輝
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黒田 清綱(くろだ きよつな、1830年4月13日(天保元年3月21日) - 1917年(大正6年)3月23日)は、日本の官僚、政治家、歌人[1]。正二位勲一等子爵。 薩摩藩士・黒田清直の嫡男として生まれる。 同じ薩摩藩出身の黒田清隆との直接の血縁は遠いが、あるとされている。諸説あり。 藩校造士館で学んだ後、藩主島津斉彬に気に入られて史館に入る。また、国学者・歌人である八田知紀に和歌を学ぶ。また、西郷隆盛とも親交が厚かった。後に軍賦役となる。1866年(慶応2年)の江戸幕府による第二次長州征伐の際、大宰府に流されていた五卿(七卿落ちの後病死した錦小路頼徳と逃亡中の澤宣嘉を除いた5名)を大坂に連行しようとするが、4月に藩命を受けて五卿の移送の阻止に大宰府に向かった黒田は幕府の使者である監察小林甚六郎 その後、鹿児島藩参政として伊地知正治とともに藩政改革に努め、1870年(明治3年)に明治政府に召され、弾正少弼として稲田騒動の鎮圧を図り、次いで東京府大参事として川路利良とともに警察制度の設立に参画した。後に教部少輔
経歴
幕末
明治
同門の高崎正風の没後は明治・大正両天皇の和歌の指導にあたった。また、麹町に滝園社を建てて歌集「庭たつみ」を刊行して門人を育てた。実子・清秀がいたが、庶子であるのを憚って家督を養子としていた甥の清輝に譲った。だが、清輝は留学中に西洋画を志して明治を代表する洋画家となったため、滝園社は清秀が継承した。
栄典
位階
1885年(明治18年)10月1日 - 正四位[5]
1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6]
1894年(明治27年)5月21日 - 正三位[7]
1904年(明治37年)9月30日 - 従二位[8]
1915年(大正4年)10月11日 - 正二位[9]
勲章等
1886年(明治19年)11月30日 - 勲二等旭日重光章[10]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[11]
1903年(明治36年)6月26日 - 勲一等瑞宝章[12]
1906年(明治39年)4月1日 - 旭日大綬章[13]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[14]
1917年(大正6年)3月23日 - 旭日桐花大綬章[15]
脚注[脚注の使い方]^ 黒田清綱(読み)くろだ きよつな デジタル版 日本人名大辞典+Plus 精選版 日本国語大辞典(コトバンク)
^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』42-43頁。
^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
^ 『官報』第3266号「叙任及辞令」1894年5月22日。
^ 『官報』第6378号「叙任及辞令」1904年10月1日。