黒澤 琢弥
くろさわ たくや
生誕 (1962-06-07) 1962年6月7日(61歳)
日本、静岡県
職業レーシングドライバー
自動車評論家
実業家
配偶者黒澤由美子
黒澤 琢弥(くろさわ たくや、1962年6月7日 - )は、静岡県御殿場市出身のレーシングドライバー、自動車評論家、実業家。血液型A型、身長164cm[1]。 父親は、日本のモータースポーツ黎明期から活躍したレーシングドライバーで、自動車評論家としても著名な「ガンさん」こと黒澤元治。弟の黒澤治樹と黒澤翼もレーシングドライバーというレース一家の出身である。 フォーミュラカー、GTカー、ツーリングカーと、いずれのトップカテゴリーにおいても複数の優勝経験があるなど、そのレーシングドライビングテクニックと開発能力は高い評価を受け、表彰台かリタイヤかというアグレッシブなレースぶりから「和製マンセル」とよばれた。また全日本GT選手権とその後継となるSUPER GTのGT500クラスにおいて、トヨタ、ニッサン、ホンダの国内3大メーカー全てのマシンをドライブしている数少ないドライバーの1人である。 海外レースへの参戦歴もあり、1987年のイギリス・フォーミュラ・フォード参戦からル・マン24時間参戦、アメリカ最高峰のCARTへの参戦キャリアを持つほか、F1ジョーダン・ヤマハでのテストドライブ経験がある。さらにインパルやチームルマンなどの国内強豪チームの監督も務めた。 このほか、長年にわたって映像媒体の自動車雑誌「ベストモータリング」に出演し、ドライビングテクニックレッスンをはじめとする様々な企画を担当し人気を博した[2]。 1979年、17歳の時にモトクロスを始め、オートバイ競技からレースキャリアを開始した[1]。往年のレーシングドライバー・舘信秀率いるトヨタ自動車系チーム『トムス』でアルバイトをしつつ、1985年11月の筑波300km耐久レースにトムスの全面バックアップを受けたトヨタ・スターレットで出場し四輪レースデビュー。クラス3位/総合6位のデビュー戦となった。 1986年、23歳で富士フレッシュマンレースや筑波チャレンジカップなどツーリングカーレースの入門カテゴリーにトムスから参戦。トヨタ・レビン/トレノやグループA仕様のカローラFXでレースの基礎を学ぶ年となった[3]。この四輪レース参戦開始時にはレース雑誌の取材を受け「今の本職は板金塗装屋で、年中忙しくて練習走行の時間が無いのが悩みです」と語り、「僕は18で結婚して、子供も2人いるので家族を養わなければいけない。でもプロのレーシング・ドライバーとして生きたいという気持ちで、将来F2やF3000まで行くつもりでやり始めました。今はすべてが早く本物のプロになるための真剣勝負です」と目標を述べている[1]。また父の影響について、「教えられて速くなるようじゃ俺を越えられないだろ、というのがオヤジの考えなんですけど、出るレースは全部見に来ます。3つ口酸っぱく言われるのがステアリングはこじるな、クルマを泳がせるように美しく走れ、それぞれのサーキットに合った足回りのセッティングを自分ですぐ出せるようにならないとプロで食えない、というのは毎度言われてます。」と父との関係性を述べている[1]。 1987年からはイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード1600にヴァンディーメンのシャシーで参戦した。 全日本格式レースへのデビューは25歳と当時としても遅めで、イギリス修行から帰国し、トムスから1988年の全日本F3選手権へのフル参戦が全日本格式デビューであった。デビュー3戦目でF3初優勝を挙げ、10月にはF1日本グランプリサポートレースの「パナソニックF3スーパーカップ」で3位に入賞するなど初年度から活躍した。1989年も全日本F3に継続参戦するが、全9戦のうち無限・MF204エンジンが8勝を挙げる勢力図の中でトヨタ・3S-Gエンジンユーザーである黒沢は最高位4位と我慢のシーズンとなるが、トヨタユーザーではトップとなるランキング7位に食い込んだ。 1990年には、日本のフォーミュラ最高峰クラスである全日本F3000選手権へのステップアップを果たした(チーム ルマン)。なおこの年には全日本F3選手権にも継続して参戦した。 その後はヒーローズレーシングやナカジマレーシング、チームインパルなどのトップチームを渡り歩き、全日本F3000選手権とその後継のフォーミュラニッポン(FN)に参戦した。コスモオイル・セルモに在籍した1994年、F3000参戦5年目にしてに念願のトップフォーミュラ初優勝を果たした[4]。1997年にはついにシーズン2位を獲得し(チームインパル)、1999年まで参戦した。当時はそのレーススタイルのアグレッシブさから「和製マンセル」とも呼ばれていた[5]。 1989年より全日本ツーリングカー選手権(JTC)に参戦し、1994年からは全日本GT選手権(と後継のSUPER GT)、全日本ツーリングカー選手権(JTCC)、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権などの国内のトップカテゴリーに1980年代から2000年代にかけて参戦し、優勝や表彰台の常連となった。1997年には全日本ツーリングカー選手権でシーズン2位を獲得している。 1992年のシーズン開幕前には、F1世界選手権に参戦するジョーダン・チームのマシン「191」にヤマハエンジンを搭載した「191Y」のテストドライバーを務めた。また1996年にも童夢のF1プロジェクトのマシンのテストドライバーを務めた。 ル・マン24時間レースやチャンプカー・ワールド・シリーズ(CART)など、海外のレースにも参戦した。1998年のル・マン24時間レースでは本山哲や影山正美とともに走り総合10位になった。 2000年にはアメリカ最高峰のCARTにシーズン参戦し、市街地コースである第3戦ロングビーチの82周の中で、55周から61周にわたり日本人選手として初のラップリーダーを成し遂げた。
略歴
レース経歴
デビュー
フォーミュラ
GT/ツーリングカーavex 無限童夢 NSX(1997年)
海外での活躍
F1
ル・マンジョーダン・191Y
CART
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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