黒海太
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黒海 太


基礎情報
四股名黒海 太
本名レヴァン・ツァグリア
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愛称コッカイ、レヴァン、想像を絶する髭
生年月日 (1981-03-10) 1981年3月10日(43歳)
出身 グルジア・ソビエト社会主義共和国アブハジア自治共和国スフミ
身長190cm
体重156kg
BMI43.21
所属部屋追手風部屋
得意技突き、押し、左四つ、寄り[1]
成績
現在の番付引退
最高位西小結
生涯戦歴446勝458敗10休(68場所)
幕内戦歴312勝363敗(45場所)
優勝十両優勝1回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序二段優勝1回
敢闘賞2回
データ
初土俵2001年5月場所[1]
入幕2004年1月場所[1]
引退2012年9月場所[1]
備考
金星2個(朝青龍2個))
2012年9月21日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

黒海 太(こっかい ふとし、1981年3月10日 - )は、アブハジア共和国スフミ市出身(呼び出し公称ではグルジア共和国〈現国名 : ジョージア〉の首都トビリシ市出身)で追手風部屋に所属した元大相撲力士。本名はレヴァン・ツァグリア〈ジョージア語:????? ???????、キリル文字転写:Леван Цагурия、ラテン文字転写:Levan Tsaguria〉。現役時代の愛称は「コッカイ」「レヴァン」。身長190cm、体重156kg。得意技は、突き、押し、左四つ。最高位は西小結2006年9月・11月場所)。趣味は音楽鑑賞、史上初のヨーロッパ出身の関取[1]四股名は故郷が面する黒海に因んだ。
来歴2009年9月場所

レスリングチャンピオンの長男としてソビエト連邦アブハジア自治共和国・スフミで生まれる。6歳の頃からレスリングを始めた。12歳のときにアブハジア紛争で自宅が破壊され、首都のトビリシに一家で逃れる。グルジアのスポーツナショナル・アカデミー在籍中には欧州ジュニア選手権大会のフリースタイル130kg超級で優勝したが、スポーツチャンネルの放送で偶々相撲を観たり、日本のアマチュア相撲チームがグルジアを訪れた際におこなった稽古を見学したりしたことがきっかけで相撲に興味を持ち、ドイツで行われた世界アマチュア相撲選手権大会にも参加した。その際に、同大会の無差別級で優勝した選手を介して、国際相撲連盟事務総長であり日本大学相撲部監督でもあった田中英壽に話が伝わり、教え子の追手風を紹介された。父にはレスリングでオリンピックに出場してほしいとして反対されたが、来日して入門。

2001年5月場所に初土俵取的の頃よりアマチュアレスリングで鳴らしたその馬力には期待が集まり出世も早かった。新序ノ口の2001年7月場所では村田(後の十両・華王錦)に、新序二段の翌9月場所では休場明けの元三段目松緑に、それぞれ敗れて6勝1敗と優勝を逸したものの、それから2場所連続で序二段・三段目と7戦全勝で各段優勝を遂げた。三段目優勝を遂げて新幕下で迎えた2002年3月場所は東幕下15枚目に在位、内規上全勝すれば十両に昇進できる地位に初土俵から僅か5場所で昇り詰めたものの、当場所は3勝4敗と力士人生初の負け越し。2002年は年間通してコンスタントな成績を修めながらも一進一退を続けていたが、西幕下6枚目で迎えた2003年1月場所では2日目の1番相撲で須磨ノ富士に不覚を喫した後6連勝、当場所幕下に全勝者がいなかった関係上、自身を含む7名(番付上位順に出羽乃富士・黒海・須磨ノ富士・内田龍皇寶智山武州山)による優勝決定戦に参加し、これを勝ち抜き幕下優勝。西幕下筆頭に昇進した翌3月場所も5勝2敗と勝ち越し、翌5月場所に新十両。十両在位中も負け越すことなく、在位4場所目の2003年11月場所に東十両2枚目で14勝1敗と十両では珍しい好成績をもって優勝。翌2004年1月場所の新入幕を決めた[1]。すぐさま幕内上位に定着し2004年5月場所で10勝、2004年9月場所は7勝8敗と負け越したが当場所優勝した魁皇を含む3大関に勝つなど活躍。同年11月場所3日目には初日から2連敗だった角番大関武双山を右上手投げで下し、引退に追い込んだ。その後、コンスタントな成績を修めつつ三役昇進の可能性を伺わせていたが平幕上位で大勝ちするに至らず、2年以上に亘り平幕の一桁台を往復していた。

一方で、2005年7月場所では横綱朝青龍を撃破し金星を挙げ敢闘賞を受賞、2006年1月場所でも横綱朝青龍を破り2つ目の金星を挙げるなど随所で活躍し、2006年3月場所は自己最高位タイの西前頭筆頭に番付を上げた。だが、場所直前に父の訃報が届き、弟の司海とともにグルジアへ緊急帰国したため、稽古不足で5勝10敗と大きく負け越し。そればかりか、千秋楽春日王戦に内掛けで敗れた際に足を負傷した。翌5月場所は、完治していない足の怪我のために前半は3勝5敗と黒星先行で苦しい場所だったが後半巻き返し、14日目に勝ち越しを決め、8勝7敗で場所を終えた。翌7月場所では前頭5枚目で10勝5敗、当場所は10勝のうちの5勝が叩き込みと引き技が目立ったが、好成績が評価され翌9月場所で新三役(新小結)を決めた。当場所は新小結で魁皇千代大海の2大関を破るなど存在感を示し8勝7敗と勝ち越したものの、関脇・小結が全員勝ち越したため、翌11月場所は関脇昇進には至らず番付据え置きとなったが、怪我の影響か引き技に依存する取り口が顕著に見られ、初日から9連敗を喫するなど3勝12敗と大敗に終わり、翌2007年1月場所は平幕に陥落した。結果的に黒海の力士人生における三役在位歴は当該2場所に終わった。

西前頭5枚目で迎えた2008年3月場所は叩きも目立ったが四つ相撲中心の取り口で12勝3敗の好成績を挙げ、2度目の敢闘賞を受賞。当場所は平幕陥落相当の成績に終わった三役力士が豪風ただ一人であり、この空きに黒海が入る可能性があったものの、翌5月場所に小結に昇進した力士は朝赤龍(東前頭筆頭で8勝7敗)で、黒海は惜しくも東前頭筆頭に据え置かれた。久々の上位進出となった翌5月場所では3勝12敗と大敗を喫し、それ以降は負傷や体重の減少などに苦しみ、平幕の中位から下位に在位することが増えてきた。

2011年1月場所は東前頭15枚目で迎えたものの、3勝12敗と大敗。幕内連続在位は43場所で途絶える形となった。

西十両6枚目に陥落した翌5月技量審査場所でも5勝10敗と大きく負け越し。しかし、大相撲八百長問題にて多数の力士が引退・解雇されたため翌7月場所は東十両4枚目と番付を上げ、9勝6敗と勝ち越し。翌9月場所では東前頭16枚目に番付を戻し、3場所ぶりの入幕を果たした。4日目の玉飛鳥戦ではがぶり寄りのような寄り倒しで勝利するなど、取り口にもやや変化が見られ、9勝6敗と勝ち越した。体の張りも前場所より明らかに増し、復活の兆しが見られたが、翌11月場所は西前頭10枚目で1勝14敗と大きく負け越し、結果的に当場所が幕内最終在位場所となった。

2回目の十両陥落となった翌2012年1月場所から2場所は精彩を欠く相撲が続いた。特に3月場所は4勝11敗に終わり、5月場所は西十両11枚目と成績次第では幕下陥落の危険性もある地位まで番付が下がってしまった。5月場所では両ひじ・両ひざに大きなサポーターをつけながら土俵に上がっていたが、10日目の隆の山との取り組みで負傷した左大腿部肉離れのため、11日目は現役初の休場となり、当時の現役関取で1位の連続出場記録が882日でストップした[2]。13日目から再出場し、千秋楽に4場所ぶりの勝ち越しを決めた。東十両7枚目で迎えた翌7月場所は4勝11敗と大敗。

東十両12枚目で迎えた翌9月場所は負傷のため3日目から途中休場し、師匠の追手風は「中日までに出られない時は決断しないといけないでしょう」と負傷の状況によっては引退の可能性がある旨を示唆していた[3]。同場所13日目の9月21日に現役引退を発表[4]。日本国籍を取得していないため年寄襲名はできなかった。翌22日に両国国技館内にて引退記者会見が開かれ「怪我が多く、これ以上続けられないと思った。日本に来て大相撲に入って、自分の人生も開けました。一番嬉しかったのは幕下筆頭で5番勝って新十両を決めた時(2003年5月)。自分が入った時には(ヨーロッパ出身者は)1人しかいなかったので、後から入った人がみんな強くなって良かった」[5][6]「心の中には思い出がいっぱい」[7]、「横綱・朝青龍から初金星を挙げた相撲(2005年7月場所)が思い出」と語り[8]、師匠の追手風親方は「私のことを常に師匠として立ててくれ、また部屋では11年間関取として引っ張ってくれた。


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