黒海ドイツ人
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ドイツ系の墓 (19世紀初頭) プショニャノヴェ村, コミンテルニウスキイ地区, オデッサ州, ウクライナ

黒海ドイツ人[1]ドイツ語: Schwarzmeerdeutsche; ロシア語: черноморские немцы; ウクライナ語: чорноморськ? н?мц?)またはウクライナ・ドイツ人は、18世紀から19世紀に母国を離れ、黒海の北側の領域(大部分ロシア帝国南部の領域で現在のウクライナを含む)に住み着いた民族ドイツ人」(ethnic Germans、ドイツ国外にあるドイツ人)である[2]

黒海ドイツ人として含まれるのは黒海エリアに由来する次のグループである(ベッサラビア・ドイツ人(英語版)、クリミア・ドイツ人(英語版)、ドブロジャ・ドイツ人(英語版)、 およびロシアン・メノナイト(英語版)など)。

黒海ドイツ人はヴォルガ・ドイツ人とは区別される。2つのグループは、ほぼ同時期に同じ理由でロシア帝国に移住した民族であるが地理的、文化的にはヴォルガ・ドイツ人とは異なる。
歴史
ロシア帝国時代

ドイツ人は1800年頃、南ウクライナおよびクリミア半島に住み始めた。その時代、南ウクライナはロシア帝国の一部だった。これらの土地はオスマン帝国(1768?1774)とクリミア・ハン国(1783)に対する戦争に勝利した後、エカチェリーナ2世の統治下、ロシア帝国によって併合された。

入植地の範囲はヴォルガ・ドイツ人の入植範囲ほどコンパクトではなかった。むしろ複数の植民地が連なっている事が多かった。最初のドイツ人入植者は1787年にやって来た。初め西プロイセンから、後にドイツ西部(英語版)、南西ドイツ、アルザスおよびワルシャワから。カソリックルター派メノナイトはすべて有能な農家として知られていた。 (メリトポリュ(英語版)地区のメノナイト入植地に関するモロチュナ入植地(英語版)の項目を参照); エカチェリーナ2世自身は彼らにロシア帝国への移住を勧める個人的な招待状を送った。黒海ドイツ系難民の馬車旅:ハンガリー,1944年7月 第二次世界大戦中
革命から第二次世界大戦まで

1917年ボルシェビキ革命ソビエト連邦の成立の後、黒海ドイツ人は第二次世界大戦前、ホロドモール(強制餓死政策)に晒され、ドイツ語を使用する教会を閉鎖され、学校は授業の言語をドイツ語からロシア語またはウクライナ語に変更することを強制された。45,000人のクリミア・ドイツ人は黒海ドイツ人とともにシベリアカザフスタン(その多くは強制労働収容所: forced labor camp)に追放された[2]

多くはソビエト連邦の農場の集団化(1930-31年 スターリンの第1次五カ年計画による)の結果として国外追放された。 ドイツ系農家は共産主義政権によってクラーク(kulaks)の烙印を押され[3]集団農場へ自発的に土地を差し出すことを拒んだ者はシベリアと中央アジアに追放された。 クラークの大量追放は社会的な基準に基づき、人種的な基準に基づくものではなかったが、ドイツ系ロシア人入植者達はおそらく、それ以外のいかなるコミュニティより苦しめられた。1926年の国勢調査によれば、ソビエトの人口1億4700万人のおよそ1.2%がクラークに分類されグラグ(Gulag:ここでは強制労働収容所の意)に追放された。 クラークとしてキャンプに送られたドイツ民族の数はおよそ5万人だった。それは同じ国勢調査によればドイツ系人口123万9000人の4%だった。 ドイツ系は集団化が推し進められている時期に、多数が追放された唯一の民族グループという訳ではなかった。同じ位多くのポーランド人も同じ運命に苦しめられた。 しかし、ドイツ系がソビエト連邦内で国内追放された単一では最大の外国系マイノリティを成していた。 多くのソビエト当局がすべてのドイツ系農家をクラークとして考えていた(平均的なロシア人農民より豊かに見えたためであった事は疑いの余地がない)ため、 ドイツ系コミュニティーに対する大きな偏見があったことが明らかになった。
第二次世界大戦期
ドイツによる侵略期

1941年6月22日のヒトラーによるソビエト連邦への侵略(バルバロッサ作戦)後、ソビエト指導部はソビエト連邦の西部地域からすべてのドイツ民族を立退かせることを決定した。 最高会議は最初の立退きを命令した。だが、決して戻る事は許されなかったので、事実上追放だった。クリミアからすべてのドイツ民族を追放するための行動は1941年8月15日に始まった。 命令には老人は立退かせてはならないとあったが、すべての人が追放された。最初はスタヴロポリへ、続いて南東ウクライナのロストフ・ナ・ドヌへ、だが最後に全員が収容所かカザフスタンの特別入植地(special settlements)に送られた。 追放される者達には荷造りに3-4時間しか与えられず、どこへ向かうのか、どのぐらいの期間留まるのか、どのぐらいの食料が必要か、教えられる事はなかった。多くの者にとって結果は飢餓だった。しかも、混乱のせいで多くの家族がバラバラになった。この時、総計でおよそ6万人のドイツ民族がクリミアから追放された。

黒海ドイツ人の大多数はドイツ軍の迅速な侵攻のおかげで立退きを免れたが、スターリンはそれでもドニプロ川の東に居住するドイツ系を逮捕・追放するのに十分な時間を持っていた。1941年9月25日から10月10日までの期間10万5000人のドイツ民族がこの地域から追放された。 ソビエト政府が1941年8月15日から12月25日までに、 シベリア中央アジアへ追放した総数で言えばドイツ系ロシア人85万6000人だった。


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