プロ野球選手の「黒沢俊夫」とは別人です。
くろさわ としお
黒沢 年雄
本名黒沢 年男
生年月日 (1944-02-04) 1944年2月4日(80歳)
出生地 日本・神奈川県横浜市西区
身長175 cm
血液型AB型
職業俳優・タレント
ジャンルテレビドラマ・映画
活動期間1964年 -
配偶者街田リーヌ
著名な家族黒沢レイラ(娘)
黒沢博(弟)
事務所夢グループ
主な作品
テレビドラマ
『日本沈没』/『影同心II』
『大空港』/『爆走! ドーベルマン刑事』
『考古学者シリーズ』/『ザ・ハングマン』映画
『日本のいちばん長い日』/『修羅雪姫』
『仁義なき戦い 頂上作戦』CM
オウミ住宅
黒沢 年雄(くろさわ としお[1]、1944年〈昭和19年〉2月4日[1] - )は、日本の俳優・歌手・タレント。本名・旧芸名(2000年に改名)、黒沢 年男(読み同じ)[1]。株式会社プロダクション・クロ代表取締役。弟は黒沢博(寺内タケシとバニーズ&ヒロシ&キーボー元メンバー)。妻は街田リーヌ(本名・街子、旧姓・宮崎)、娘は元女優の黒沢レイラ(旧芸名・三井万裕美、本名・裕美)。
神奈川県横浜市西区出身[2][1]。日本大学高等学校中退[3]。 小学生の頃に好きだった巨人の選手(川上哲治、青田昇ら)に憧れて野球選手になると決心して野球を始め[5]、日本大学横浜学園(日本大学中学校)進学後も高校生時代まで野球部に所属[6]。高校生の時には、法政二高との練習試合で投手だった柴田勲と対戦し、ヒットを打ったことがある。しかしその時バットがへし折られていたことと、先輩たちが全く歯が立たなかったのを見たことから、上には上がいるからプロ野球選手は無理かも知れないと思うようになる[7]。 その後、同じ高校の2年先輩で高校生時代からすでに歌手活動をしていた坂本九、同じ野球部の2年先輩で後に歌手になった飯田久彦に影響されて、自分も歌手になりたいと思い、家出して数日後、ジャズ喫茶の銀座ACBでオーディションの告知を偶然目にして参加、合格するも「自分には才能がある」と思い込んで給料8千円のバンドボーイの条件を断り、大阪のナンバ一番や京都のベラミなどのジャズ喫茶、クラブなどのオーディションも受けたが条件がみんな似通っていたようなこともあって、結局横浜に帰って来る[8]。その後も歌手や芸能界への夢はあきらめず、高校の野球部の先輩の飯田久彦に相談を持ち掛けたこともあったが、その後は精肉店勤務を経て、紹介により横浜の企業「築港興業」に入社。この頃は昼のサラリーマン生活の傍ら、夜はキャバレーのボーイとしても勤務していた[9]。 その後も各映画会社のニューフェース募集の告知があるたびにオーディションに通い続け、日活では最終面接まで行くことが出来たが落選[10]。1964年、東宝ニューフェイスの後身の第4期オール東宝ニュータレントとして東宝に入社[1]。俳優を志した理由は「有名になって金持ちになりたかったから」[11]。同年、映画『女体』でデビュー[1]。 岡本喜八、福田純、西村潔、松林宗恵などの作品に多く起用されて人気が出る。 70年代に入ると、活動の舞台を徐々にテレビドラマにシフト。アクション、時代劇、サスペンスものからホームドラマまで幅広い役柄を演じている。 独特の低音声が特徴で、「やすらぎ
来歴
それまでオファーを受けても本人曰く「格好つけて」断っていたというバラエティ番組に本格的に出始めるようになったきっかけは娘に勧められたことで、42歳の時に『さんまのまんま』(関西テレビ放送)に出演し、本人曰く「オーバー過ぎるくらいにバカをやってみた」ところ、予想以上の反響を呼んだことで他のバラエティ番組から次々にオファーが来るようになる[12]。そして平成に入ってからはオウミ住宅のCMが話題を集め、トーク番組では中尾彬などと並んで出演が増加した。
1992年に大腸癌が発覚し、それまでアイパーをかけていた頭髪を短く刈り込み(現在はそれに加えて白く染めている)、その後は無精髭(長さは2mmにそろえている)を生やし、ニット帽(当初はファッションモデルの夫人が持っていたピエール・カルダンのニット帽だった)を被るようになった。
2010年、著書『二流芸能人が、何度がんになっても笑って生きている理由』(講談社刊)を上梓、2008年に膀胱癌の内視鏡手術を行っていたことを告白した。
近年は株式会社夢グループと提携し、同社が運営するコンサートに出演し、全国各地を回っている。
人物
東宝で面接を受ける日、わざと遅刻して面接会場に現れ、母親の話や仕事を三つ掛け持ちしていたために寝坊したなどといった話をした後に「自分を合格させないと映画界の損失になる」と言い放った(その時面接を受けた男性希望者で合格したのは黒沢ただ1人だった)[14]。後で黒沢自身がプロデューサーの藤本真澄から聞いた話によると、この受け答えのぶっきらぼうさが三船敏郎の面接時のそれにそっくりだったという。また、名前だけ見て黒澤明の息子かと勘違いした審査員も何人かいたという[15]。
東宝に入社して間もない頃に、プロデューサー会議で決定したという芸名「八方一郎(やかた いちろう)」を提示される。「三船敏郎、三橋達也、加山雄三、わが社のスターは全員名前に数字が入っている。それに八方破れな君にぴったりだし、八は末広がり。姓名判断を加味して決めた」という命名理由だったが、これにすぐに呆気にとられて嫌になったことから断り、それならという案で提示された「黒沢敏郎」も「三船さんの敏郎だから名前負けする」と固辞。結局、本名でデビューすることになった[16]。その後『踊る!さんま御殿!!』内では一時期これをネタにして「八方一郎」という名前で呼ばれ、頻繁にゲスト出演していた。
トレードマークとなったニット帽は先述の通り妻が持っていたものであるが、黒沢は、ある日「このままでは自分の存在が薄くなって忘れ去られてしまうのではないか」と思い立ち、今までの自分を捨てて新しくイメージを構築することを思い立ち、まず頭を丸めたが、「まだ何か足りない」と思っている時、妻が自分の古い写真を見つけ、さらにその中で被っていたニット帽がタンスの中から出てきたので被ってみると、思いのほか似合っていたため、この格好に決めたという。さらに髭を伸ばして見たとき、自ら「ショーン・コネリーに似ている」とも思ったと述べている[17]。
当初は『ウルトラマン』のウルトラマン(ハヤタ)役の候補に挙がっていた[11]。黒沢本人は、当時所属していた東宝プロデューサーの藤本真澄が黒沢に映画の仕事を優先させるために断ったのではないかと推測している[11]。また、『ウルトラセブン』のウルトラセブン(モロボシ・ダン)役の候補に挙がったこともあった。
映画スターとなってかなりの収入があったが、森繁久彌から「30歳までに稼いだ金は全部使いなさい。貯金を残すな」と言われ、そのとおりに遊興し、東宝との契約解除や『ハングマン』の主役交代などで幾度か収入がピンチになってしまい、「森繁さんの言うことさえ聞いてなければ、今頃は……」とコメントしたことがある[18][19]。
上記のように20代など若い頃は毎年春と秋の2回、ヨーロッパ(主にフランスとイタリア)に行くことが慣例となっており、現地で最先端のファッションに直接触れていたその影響もあって、ファッションについては「いつまでもTシャツとジーンズでスポーツカーの似合う男になりたい」などといった持論がある[19]。
「三年目の浮気」を歌う依頼があったが、当初、ニヒルな二枚目としてのイメージがあった黒沢は、コミカルな歌の内容からこれを断り、バンド活動をしていた弟に白羽の矢が立てられた。
子供の頃に化猫映画を観てひきつけを起こして以来、怪奇映画を苦手としている[20]。映画『血を吸う薔薇』に出演した際は旧知である監督の山本迪夫から熱心な説得を受け出演を承諾したが、その際も完成作品を観ないことを条件としていた[20]。黒沢は、出演の際に参考試写された前作『呪いの館 血を吸う眼』も途中で退席したという[20]。
出演
映画
女体(1964年、東宝)[1]
ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば(1964年、東宝)
侍(1965年、東宝)
エレキの若大将(1965年、東宝)
社長千一夜(1966年、東宝) - 小川次郎
女の中にいる他人(1966年、東宝)
ひき逃げ(1966年、東宝)
お嫁においで(1966年、東宝)
これが青春だ!(1966年、東宝)
伊豆の踊子(1967年、東宝) - 「私(川端康成)」
東宝8.15シリーズ
日本のいちばん長い日(1967年、東宝) - 畑中健二
連合艦隊司令長官 山本五十六 (1968年、東宝) - 木村大尉[21]
日本海大海戦(1969年、東宝) - 前山一等兵[21]
激動の昭和史 軍閥(1970年、東宝) - 島垣
めぐりあい