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日本の政治家黒沢 丈夫くろさわ たけお
生年月日1913年12月23日
出生地 日本 群馬県多野郡上野村
没年月日 (2011-12-22) 2011年12月22日(97歳没)
死没地 日本 群馬県富岡市
出身校海軍兵学校
前職海軍少佐
所属政党無所属
称号正五位
旭日重光章
上野村長
当選回数10回
在任期間1965年6月14日 - 2005年6月13日
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黒沢 丈夫
1942年11月、大村空時代
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1936 - 1945
最終階級 海軍少佐
除隊後上野村村長
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黒沢 丈夫/黒澤 丈夫(くろさわ たけお、1913年(大正2年)12月23日 - 2011年(平成23年)12月22日)は、大日本帝国海軍士官・操縦士。政治家。戦後群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務めた。日本航空123便墜落事故の際に事故処理に尽力したことで知られる。称号は上野村名誉村民[1]。正五位[2]、旭日重光章[3]。 1913年(大正2年)12月23日、群馬県多野郡上野村の酒造業を営む家に生まれた。父は後に上野村村長となっている。群馬県立富岡中学校を卒業。 1932年(昭和7年)4月に海軍兵学校に第63期生として入隊した。1936年(昭和11年)、兵学校を卒業し、アメリカ合衆国のニューヨークまでの遠洋航海に出た。この時黒沢は、日米の国力の差に圧倒され、アメリカ合衆国の生活の豊かさを嫌というほど思い知ったという。 帰国後、巡洋艦「那智」・駆逐艦「夕霧」乗組を経て、1937年(昭和12年)9月に第29期飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に転じた。航空隊を志願した動機は、兵学校時代の成績の悪さに反省し、さぼれない環境に身を置きたかったからだと言う。1938年(昭和13年)5月、佐伯海軍航空隊に移り戦闘機操縦士としての訓練を受けたのち、11月、第十二航空隊に配属され漢口に着任した。 当時の戦況は、中国空軍主力は奥地の重慶まで退き、12空に配備された九六式艦上戦闘機(96艦戦)では航続距離が短く、そこまで攻撃できなかった。空中戦は発生せず、黒沢らは戦闘機に爆弾を積んで、宜昌などへの爆撃に従事した。1939年(昭和14年)9月、霞ヶ浦空の教官として内地に帰還したが、11月に訓練中の事故で入院することになる。 1940年(昭和15年)11月、新設された元山海軍航空隊へ分隊長として転任し、翌1941年(昭和16年)4月には再び漢口へと進出した。
経歴
生い立ち
海軍兵学校卒業後、航空隊に配属