黒江透修
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黒江 透修(黒江 幸弘)2018年7月23日 東京ドームにて
第89回都市対抗野球大会
基本情報
国籍 日本
出身地鹿児島県姶良郡姶良町(現:姶良市
生年月日 (1938-12-12) 1938年12月12日(85歳)
身長
体重165 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り1964年
初出場1964年8月8日
最終出場1974年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


鹿児島高等学校

杵島炭鉱

日炭高松

立正佼成会

読売ジャイアンツ (1964 - 1974)

監督・コーチ歴


読売ジャイアンツ (1975 - 1978)

中日ドラゴンズ (1981 - 1983)

西武ライオンズ (1984 - 1985, 1990 - 1994)

千葉ロッテマリーンズ (1996)

福岡ダイエーホークス (1998 - 2000)

横浜ベイスターズ (2001 - 2002)

埼玉西武ライオンズ (2008)

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黒江 透修(くろえ ゆきのぶ、1938年12月12日 - )は、鹿児島県姶良郡姶良町(現・姶良市)出身(台湾台北市生まれ[1])の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者評論家。旧名は幸弘。
経歴
プロ入りまで

父親は海軍軍人で、香港に移住後に除隊となってから、軍需品を扱う仕事をしていた[1]。幼少期は裕福であったが、終戦を機に財産を消失して貧しくなる[2]1946年、両親の故郷である鹿児島市に引き揚げ、父親は精米所の経営を始めた[1]

黒江は8人兄弟の三男で、4人の男兄弟の中で最も運動神経に優れており、小学校3年生の時に野球を始める[3]。両親は黒江をプロ野球選手にしたいとの夢を抱いており、『野球界』などの野球雑誌を買い与えられたほか、食事の際にも肉を兄弟の中で一番多く出されるなど、優遇されていたという[3]。この頃の憧れの野球チームは、六大学野球早稲田大学と、プロ野球巨人であった[3]

黒江は幼い頃から家業の精米所をよく手伝っていたが、小学校5年の時に精米機ローラーの中にが巻き込まれる。引き抜くと、血だらけの右手人さし指は第1関節から先が無くなっていた。戦後間もない頃で近くには大きな病院も無く、町医者で応急手当てをした程度であった[4]。黒江は「もう野球はできない」と観念したが、爪の根本がほんの少し残っていたため、そのうちにほとんどなかった爪が伸びてきた。野球は諦めずに済んだが、そこからが大変であった[4]。キャッチボールの時に球をリリースする際、人さし指の先に縫い目が引っかかってすぐに腫れ上がり、血が噴き出した[4]

鹿児島高校進学後は打撃投手を命じられたが、あちこちから「ボールに血が付いているぞ。誰だ?」という声が上がったために恐る恐る手を挙げると、「もうお前は投げなくていい」と言われて失格となった[4]。その後は皮膚を強くするため、暇さえあればに指先をトントンと叩き付け、寝ても天井に向かってボールを投げ続けた[4]の強さには自信があったため、通常、人さし指中指の2本でリリースするところを薬指を加えた3本の指で押し出すようにリリースする独自の投げ方をマスターする[4]。その影響で送球がクセ球になり、ややシュート気味の変化球のようになり一塁手をはじめ他の野手がキャッチしにくくなることを守備面で大きなネックとしていたが、巨人入団後は藤田元司コーチと座布団にボールをぶつけるという特訓でクセのない送球を出来るようになった[5]。高校卒業間近に父がやっていた穀物精製工場が倒産し、大学進学を断念。卒業後は入団テストを経て、1957年に杵島炭鉱へ入社[6]。しかし入社して半年後に業績不振によって野球部が解散となり、同年11月に招かれて日炭高松へ移籍。そこで深見安博監督、八浪知行コーチから指導を受ける[6]1959年都市対抗に初出場、また2年連続で九州社会人野球大会で首位打者となった。この時に後に妻となる良枝と知り合い、二人は結婚を考えたが、月給は1万6500円で、家賃が6000円、交通費2000円、光熱費・衣服費・雑費が3000円で、手元に残るのが食費を含めて5500円であった[7]。両家ともに結婚に反対したが、この頃に信者であった[6]立正佼成会の「佼成球団」[8]から移籍話があった[7]。九州での野球生活に限界を感じたのを機に1960年の秋[6]、二人は駆け落ち同然に上京。月給は1万8500円になったが、新居は3畳1間のアパートで、良枝は朝から袋張りの内職で家計を助けた[7]。こんな背景から黒江は目の色を変えて野球に取り組み、1964年の都市対抗では熊谷組の補強選手として出場し、準決勝に進むが電電東京に敗退。3番打者として8打席連続安打の新記録を達成し、2本塁打を含む18打数13安打・打率.667で首位打者となり、1試合5盗塁を記録して大会初の特別賞を獲得[8]。佼成球団のチームメイトには小川健太郎金博昭らがいた。
現役時代

プロのスカウトから注目を集めるようになり[9]、大会期間中に1000万円で契約し、終了後の8月5日に読売ジャイアンツへ入団。2年目の1965年イースタン・リーグの首位打者を獲得。春のオープン戦の広島から東京へ戻る寝台特急の車中にて、正遊撃手の広岡達朗に「どうしてオレはレギュラーとして使ってもらえないのですか」と頭を下げる[10]。広岡は黒江のこの行動に困惑しつつも「オマエの守備では首脳陣は怖くて使えないよ」と述べて黒江の守備の欠点を具体的に指摘し[11]、これ以後、広岡から宿舎などで指導を受けることになる[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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