黒柳徹子
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「トットちゃん」はこの項目へ転送されています。黒柳徹子の半生とその家族の物語を描いたテレビドラマについては「トットちゃん!」を、黒柳徹子の著書については「窓ぎわのトットちゃん」をご覧ください。
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出典検索?: "黒柳徹子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年4月)

くろやなぎ てつこ
黒柳 徹子
文化功労者顕彰に際して
公表された肖像写真(2015年11月)
生年月日 (1933-08-09) 1933年8月9日(90歳)
出生地 日本東京府東京市赤坂区乃木坂[1]
血液型A型
職業女優
タレント
声優
司会者
エッセイスト
ジャンルラジオドラマテレビドラマ映画舞台CM
活動期間1953年 -
配偶者独身(未婚)
著名な家族黒柳守綱(父)
黒柳朝(母)
黒柳紀明(弟)
黒柳眞理(妹)
田口修治(伯父)
事務所吉田名保美事務所
公式サイト黒柳徹子 公式ホームページ トットちゃん
主な作品
テレビドラマ
若い季節
繭子ひとり
元禄太平記』吹き替え
ひょっこりひょうたん島
サンダーバード』バラエティ番組など
NHK紅白歌合戦』(司会)
徹子の部屋[1]
音楽の広場
ザ・ベストテン
世界・ふしぎ発見!』舞台
「海外コメディ・シリーズ」
『幸せの背くらべ(英語版)』
『マスタークラス(英語版)』

 受賞
毎日芸術賞
第38回(1997年
(『幸せの背くらべ』『マスタークラス』)読売演劇大賞
第4回(1997年) 大賞・最優秀女優賞
(『幸せの背くらべ』『マスタークラス』)菊田一夫演劇賞
第38回(2013年) 特別賞

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黒柳徹子
YouTube
チャンネル

徹子の気まぐれTV

活動期間2021年 -
登録者数21.7万人
総再生回数33,321,643回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2022

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-11-07-00002023年11月7日時点。
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黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、本名同じ、1933年昭和8年〉8月9日 - )は、日本女優タレントテレビ司会者エッセイスト。日本史上最初のテレビ出演者のひとり[2][3][注 1]で、ニュースショーキャスターや、トーク番組の司会を女性では初めて務めた[4]愛称はトットちゃん、チャック。所属事務所は有限会社吉田名保美事務所。日本芸術院会員[5]
人物

日本でテレビの放送を開始した初日からテレビ出演を続ける(1953年2月1日)、日本史上最初のテレビ女優である[2][3][6][注 1]。テレビ草創期から活躍を続けるタレントの一人として知られ[7]、日本史上最初のテレビ女優としては唯一、21世紀に至るまでテレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けており、日本のテレビ放送史を代表する芸能人の1人であると言える。冠番組の『徹子の部屋』では、同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者として、記録更新中である。幅広い層が観るバラエティ番組に数多く出演しており、大御所同士だけでなく若手芸人とのトークも好評であるため、21世紀においても国民的人気を維持している。

徹子の部屋』や『NHK紅白歌合戦』などの司会業、累計800万部を記録し[8] 、戦後最大のベストセラーとなっている『窓ぎわのトットちゃん』の著者、長年ユニセフ親善大使を務めていることで知られる[9]

テレビ番組だけでなく、舞台に出演したり、コンサートなどのイベントで司会を務めることも多い。新しい物好きで、2010年代以降ではスマートフォンとフィーチャーフォン(ガラケー)の2台を持ち、デコレーションを施した上で[10]、SNSも活用し、特に福山雅治に勧められて始めたInstagramでは美的センスを活かして芸術作品のような映える画像を公開しており、10代から20代の若年女性にも好評である[11][12]。黒柳も従来のテレビではありえなかった視聴者との直接の対話を新鮮に感じており、コメントもすべて読んでいる[13]
略歴
生い立ち.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(蛛jが含まれています(詳細)。

東京府東京市赤坂区乃木坂に生まれ、父の音楽の練習場が洗足池近くに移ったため、旧東急目蒲線洗足駅に近い大森区北千束町で育った[14]。母が徹子を妊娠していた時、両親は男児が生まれるものと思い込んでおり、「徹」という名前を考えていたが、実際に生まれたのは女児だったため、やむを得ず「子」をつけて「徹子」にしたというエピソードがある。「黒柳」とサインを書くときには、柳の異体字である「蛛v(木偏に夘)を使用する。

父は音楽家で、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓:田口)、母はエッセイスト黒柳朝(旧姓:門山)。弟には幼くして亡くなった黒柳明兒、ヴァイオリニストの黒柳紀明、妹には元バレリーナで美容師に転身したエッセイストの黒柳眞理がいる。また、伯父には松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村や、日本ニュース社のニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュースの極東代表を務めた田口修治がいる。

幼少期は「問題児」とされたため、尋常小学校を1年生の時に退学させられ、トモエ学園1年生に転校する[15]太平洋戦争末期の1945年3月の東京大空襲をきっかけに、以前に北海道の母の実家から帰る汽車で青森の農家と隣り合わせた縁で青森県三戸郡の諏訪ノ平に疎開する[14][16]

1945年8月の終戦後に東京に戻り、トモエ学園、香蘭女学校中等科・高等科東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)声楽科卒業。
女優として1956年1963年

音楽学校卒業後オペラ歌手にはなれないと分かり、「自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろう」と思い立って、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけたNHK放送劇団の俳優募集の広告に応募、履歴書を持参すべきなのに郵送してNHKから注意されたり、筆記試験の会場を間違えて遅刻した上で、問題が分からず答案用紙の裏まで長所を書き連ねた上で、消しゴムで答案用紙を汚損するなどのトラブルに見舞われながら、約6,000人の応募者の中から第6次までの審査を経て13人の劇団員の1人として選ばれた[17][18]

NHK放送劇団では五期生で、同期には友部光子、里見京子横山道代幸田弘子ら。

放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」、「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などのマイナスな発言を繰り返したのにもかかわらず、採用に至った[1]

女優の志望動機は前述の通り「母親になった時に子供に絵本を読み聞かせられるようになりたかったから」だったが、1952年に翌年のNHKのテレビ放送に備え招かれていたアメリカ合衆国NBCプロデューサーのテッド・アレグレッティーの講演で「アメリカのテレビ局はスポンサーの影響でニュース教養番組はテレビ放送全体の15%だが、一公共放送が建前のNHKではニュース・教養番組が主になると聞いているので、世界の風俗・習慣・戦争を見る事が出来るので、永久的な平和がテレビによってもたらせる」と聞き、プロとしての女優意識に目覚める[19]

こうしてテレビ放送の開始を翌月に控えた1953年1月にNHK放送劇団の一員となり、テレビ女優の第一号としてデビューした。

当初はラジオやテレビの通行人として出演しつつ、テレビの現場を学ぶ[18]

1954年、NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)が開始した。

同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。「大人でも子どもの声を出せるはずだ」との劇作家・飯沢匡の発案により、NHK始まって以来のオーディションを経て、三男・トン坊役を演じて一躍有名になる。

以降も人形劇チロリン村とくるみの木』(1956年 - 1964年)、『ブーフーウー』(1960年 - 1967年)などに出演し、さまざまなキャラクターの声を演じる[18]

子ども番組に加えてテレビドラマ若い季節』(1961年 - 1964年)、『夢であいましょう』(1961年 - 1966年)などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになる[18]

20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週に10本を数え、平均睡眠時間3時間という日が続いて、過労からすべてのレギュラー番組を降板し1か月の入院を余儀なくされる[20]

NHK専属女優時代の初めの頃、ディレクターは「私をずっと降ろしたがっていた」と述べている[21]

1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』では、自身初となる『NHK紅白歌合戦』の紅組司会を務めた。それから22年の月日が経った1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅組司会に復帰し、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美に並び史上最多である。その32年後である2015年の『第66回NHK紅白歌合戦』では、総合司会として再度紅白の司会に復帰した。通算6度はNHKアナウンサー以外の女性の最多記録となっている。

1961年、第1回(昭和36年度)日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞した[22]


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