黒岩涙香
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定本俚謡正調:写真
ペンネーム古概
涙香
民鉄
黒岩大
誕生黒岩周六
(1862-11-20) 1862年11月20日
土佐国安芸郡川北村
死没 (1920-10-06) 1920年10月6日(57歳没)
東京府東京市本郷区
墓地總持寺
職業ジャーナリスト
歴史家
評論家
小説家
評論家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴中之島専門学校
ジャンル小説
文学活動時事評論
主な受賞歴勲三等
ウィキポータル 文学
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黒岩 涙香(くろいわ るいこう、1862年11月20日(文久2年)9月29日 - 1920年(大正9年)10月6日)は、日本小説家思想家作家翻訳家ジャーナリスト

本名は黒岩 周六。 黒岩は本名に、涙香は愛読していた「紅涙香」に由来する。

黒岩涙香のほか、香骨居士、涙香小史、冷眼士等などの筆名を用いた。号は古概、民鉄、正調庵、黒岩大。執拗な取材をおこなうことから「マムシの周六」というあだ名がつけられた。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士。

翻訳家、作家、記者として活動し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊した。

兄は黒岩四方之進
経歴

土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)に土佐藩郷士・黒岩市郎の子として生まれる。藩校文武館で漢籍を学び、16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校)に学び英語力を身につける。翌年、上京して成立学舎慶應義塾に進学するも、いずれも卒業せず。大阪時代から新聞への投書を始め、自由民権運動に携わり1882年には官吏侮辱罪により有罪の判決を受けた。

「同盟改進新聞」や大平三次の経営する「日本たいむす」に新聞記者として入社後、1882年に創刊された「絵入自由新聞」に入社。2年後に主筆となり、語学力を生かして記者として活躍していくも、後に翻案小説に取り組むようになる。「今日新聞」(後の「都新聞」)に連載した翻案小説『法廷の美人』がヒットして、たちまち翻案小説スターとなり、次々に新作を発表した。逐語訳はせず、原書を読んで筋を理解したうえで一から文章を創作していた。1889年、「都新聞」に破格の待遇で主筆として迎えられたが、社長が経営に失敗。新たに社長に就任した楠本正隆と衝突して退社。

1892年に朝報社を設立し、「萬朝報」を創刊した(紙名には「よろず重宝」の意味がかけられている)。タブロイド判の日刊新聞で、涙香の『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情(あゝ無情)』などの代表作を次々に掲載したり、『相馬家毒殺騒動』(相馬事件)や『淫祠蓮門教会』(蓮門教)といったスキャンダラスな出来事を他紙よりも長期にわたり、ドラマチックに報道することで部数を伸ばしていく。一時は東京一の発行部数を誇り、最大発行部数は30万部となった。また有名人無名人の愛人関係を本人はもちろん愛人も実名住所職業入りで暴露した人気連載「弊風一斑蓄妾の実例」も涙香の執筆によるものであった。こうしたスキャンダル報道だけでは、やがて大衆に飽きられて売れなくなると、涙香は幸徳秋水内村鑑三堺利彦らといったインテリに参画を求めた。1901年7月には「理想団」を設立、人心の改善、社会の改良を目指し、青年の人気を得た。しかし1903年になって、日露問題に非戦論をとなえていた「萬朝報」が経営悪化を理由に開戦論に転じたことで、この3人の好論客は退社している。1904年2月11日、東京かるた会をつくり、常磐木倶楽部で第1回競技会開催。

1911年に朝報社より婦人雑誌「淑女かゞみ」を創刊。婦人問題について執筆し、『小野子町論』『予が婦人観』などを刊行する。シーメンス事件では政府を攻撃したが、続く大隈内閣を擁護して不評をまねいた。1915年の御大典に際して、新聞事業の功労により勲三等に叙せられる。同年に長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業。1920年、肺癌のため東京帝国大学附属病院で死去[1][2]。戒名は黒岩院周六涙香忠天居士(自らの撰による)[2]
家族

父の黒岩市郎は、高知城下から海岸線を東に40キロほど行った安芸郡川北村(現・高知県安芸市)で私塾を開いていた[3]。先祖は戦国武士の黒岩越前と言われ、その10代目の子孫の黒岩玄治(1805年没)が涙香の曽祖父に当たり、川北村で医業を営んでいた[3]。その長男は医業に進み、次男の源助(涙香の祖父)は郷士となり暦学者となった[3]。市郎は明治維新後上京し、大蔵省に出仕したまま郷里に戻らず、涙香が13歳の1875年に亡くなった[3]

母の信子は祖父・源助の弟の次女で、市郎とはいとこ結婚だった[3]。信子の兄慶介は江戸に出て浅田飴で有名な浅田宗伯に師事し、静山と号する医者になった[3]

涙香の上に姉2人兄1人がおり、兄は黒岩四方之進、姉の為子は土佐藩山内容堂の元典医で東京銀座で医院を開業していた秦呑舟に嫁ぎ、のちに千葉に移り住んでキリスト教の布教と地域医療に尽力した[3]。涙香は生後すぐ、父の弟の黒岩直方(1900年没)の養子となったが、実家で育った[3]。直方は大阪や東京の裁判所で判事を務めており、涙香が新聞界に進んだのも直方から漏れ聞いた裁判の話がきっかけだったという[4]。直方の次男・直厚はのちに涙香の最初の妻の身内である鈴木珠(たま)に婿入りして鈴木家を継ぎ、朝報社内の「万弁舎」の編集発行人を務めた[5]

最初の妻・真砂子(1874年生、本名・乃ぶ)とは「都新聞」社長の山中閑の媒酌で1891年に結婚した[6]。真砂子は上野で下宿屋をしていた寡婦・鈴木ますの娘で、涙香は一時仲間とそこに住んでいた[6]。結婚後も母ますが同居し、母娘ともども身持ちが悪く、母親と涙香の仲も噂され、真砂子も書生らと浮名を流した[7]。真砂子とは三男をもうけたが、ますの没後離婚した[7]

真砂子との長男の黒岩日出雄(1892年生、俳号・漁郎)は「万朝報」重役のほか、涙香が初代会長だった東京かるた会の2代目会長を務めた[8]。二男の宣光(1894年生)は涙香の兄・黒岩四方之進の養子となった[9]


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