日本テレビ系列で1968年に放送された松本清張原作の同名テレビドラマについては「カルネアデスの舟板 (松本清張)」をご覧ください。
黒い罠
Touch of Evil
ポスター(1958)
監督オーソン・ウェルズ
脚本オーソン・ウェルズ
原作Whit Masterson
『Badge of Evil』
製作アルバート・ザグスミス
『黒い罠』(くろいわな、原題: Touch of Evil)は、1958年製作のアメリカ映画。オーソン・ウェルズ監督によるフィルム・ノワール。アメリカとメキシコの国境地帯を舞台に、メキシコ人麻薬捜査官が悪徳警官の不正捜査を追及する。
公開当時は興行的にも批評的にも失敗したが、現在ではカルト映画としての地位を確立している。特に映画冒頭の長回しはよく知られている。1998年にウェルズが残したメモに基づいて再編集を施したディレクターズ・カットが公開された。 1956年に出版されたホイット・マスタースン(マスターソン)の探偵小説『黒い罠』(邦訳:早川書房、原題:Badge of Evil=悪の記章、の意味)が原作である。映画の監督と脚本をオーソン・ウェルズが担当しているが、当初ウェルズは俳優としてのみ起用され、監督は別人に依頼される予定だった。小説の映画化を決定したユニヴァーサル・ピクチャーズがチャールトン・ヘストンと出演交渉を行った時、ヘストンがスタジオの役員にウェルズを監督として起用してはどうかと勧めたため、彼が映画の監督も担当することになった[1]。監督を任されたウェルズは、同時に脚本の執筆に着手した。原作ではメキシコ人の妻を持つアメリカ人地方検事補佐が主人公だったが、夫婦の国籍を逆にしたのはウェルズのアイデアである。その他に物語の舞台をカリフォルニア州からアメリカとメキシコの国境地帯にするなど、ウェルズは映画化に当たって様々な設定の変更を行った。 映画は主にロサンゼルスのヴェニス地区で撮影された。現在では西海岸有数のリゾート地として知られる当地だが、『黒い罠』が製作された頃は不況の煽りを受けて完全に荒廃しており、物語の舞台である国境の町を思わせる様相を呈していた[2]。当時のハリウッドでは、芸術家肌のウェルズは映画製作にやたらと金と時間を掛ける扱いにくい監督だと認識されていた。そのためハリウッドで孤立していると感じていたウェルズは、その風評を払拭するために映画会社が設定した予算と期間内で映画を撮影することに尽力した。映画は約90万ドルの制作費を掛け、39日で撮影を完了した。若干予算と期間をオーバーしたものの、これはほぼスタジオの構想に近いものだった[3]。 映画の撮影と編集を一通り完了したウェルズは、そのフィルムをユニヴァーサル・ピクチャーズに託し次の映画製作の資金集めのためにメキシコに旅立った。しかしスタジオの役員たちは物語のプロットが難解すぎるとしてそのままでの公開に難色を示し、ウェルズに無断で映画の脚本変更と追加撮影、そして再編集を行った。このとき製作された109分のバージョンは、後に「試写会版」と呼ばれるものである。メキシコから帰ってきたウェルズはスタジオの独断専行に激怒し、彼らに自分の意見を述べた58ページにもおよぶメモを提出した。しかしスタジオは結局ウェルズの嘆願を殆ど無視、それどころかロサンゼルスで行われた先行上映会での不評(映画を俗悪だと感じた女性客が、映画会社の取締役をハンドバッグで殴りつけたという[2])を受けて更に映画を96分まで短縮した。これが最終的に一般公開されたバージョン、つまり「劇場公開版」である。 この劇場公開版は1958年5月21日に二本立て興行の添え物として公開されたが、映画会社の目論見とは裏腹に興行的には惨敗を喫した。作品に対するアメリカ国内の批評家たちからの評価も芳しくないものだった。ただし同年のブリュッセル万国博覧会で上映されたときは審査員のジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーたちから絶賛され、万博の最高賞を与えられたという。1960年代に入り若い世代の映画製作者たちを中心に再評価の機運が高まり、現在ではカルト映画として認識されている[4]。 自分の作品に勝手に手を加えられたウェルズはハリウッドのスタジオ・システムに失望、また興行的に失敗した彼を援助しようとする映画会社も現れなかった。結果的にウェルズにとって本作品がアメリカにおける最後の監督作品となった。これ以降ウェルズはヨーロッパに拠点を移し、そちらを中心に活躍することになる。 1992年に映画評論家のロバート・ローゼンバウムが、ウェルズのメモの断片をフィルム・クォータリー誌で公開した。それに触発されたフィルム修復の第一人者リック・シュミドリンは、『黒い罠』の権利を保有しているユニヴァーサル・ピクチャーズと交渉し映画の修復を行う許可を得た。シュミドリンはウォルター・マーチを編集に迎え、現存する試写会版と劇場公開版を用いて映画の再編集を行った[4]。ウェルズ本人は1985年に既に他界していたので厳密に言うとディレクターズ・カットではないが、彼の残したメモに忠実に再構成された上映時間111分の「修復版」は好評を博し、作品の評価を不動のものにした。 修復版は1998年9月11日に北米で公開され、アメリカ国内で約220万ドルの興行収入を挙げた[5]。プロデューサーのシュミドリンは『黒い罠』の修復作業を評価されて、同年度のニューヨーク映画批評家協会賞の特別賞を受賞し、マーチを含むスタッフも全米映画批評家協会賞やロサンゼルス映画批評家協会賞から特別表彰を受けた。2008年10月には修復版のみならず、試写会版や劇場公開版も含めた50周年記念DVDがユニヴァーサル・スタジオから発売された。このDVDにはウェルズがユニヴァーサル・スタジオに提出したメモを模した小冊子が特典として付属しているが、これまでスタジオに秘匿されていたメモの完全な内容が一般に公開されたのはこれが初めてのことである。 アメリカとメキシコの国境地帯にある田舎町のロス・ロブレス。新婚旅行の途中にそこを訪れたメキシコ人麻薬捜査官のラモン・ミゲル・ヴァルガスと彼の新妻スーザンは、地元の有力者リネカー氏の運転する車が突如として爆発したのを目撃する。事件が国際問題に発展するのを憂慮したヴァルガスは、スーザンをホテルに帰し現場の調査を開始する。アメリカ側の捜査責任者として現場に現れたのは、ハンク・クインランと名乗る跛足で肥満した異形の老刑事だった。クインランは担当した事件の犯人を必ず捕まえることで有名であり、警察関係者から凄腕の警部として崇拝されていた。爆弾が起動したのはアメリカ領だが、車に爆弾が仕掛けられたのはメキシコ領だったとして捜査へ参加する意向を述べるヴァルガス。そんな彼に対してクインランは敵意を隠さない。 一方その頃、ホテルに帰る途中にスーザンはヴァルガスについて話があると言われ、メキシコ人の若者に別のホテルに案内される。そこで彼女を待っていたのは、ヴァルガスたちが捜査中のグランディ一家の幹部ジョー・グランディだった。ジョーはスーザンに対して、拘留中の彼の兄弟を釈放するように脅迫するが、彼女は取り合わない。その夜もヴァルガスとスーザンは、グランディ一家からホテルの部屋を監視されるなど様々な嫌がらせを受ける。それに耐えかねたスーザンは宿泊中のホテルを引き払い、国境を越えてアメリカ側のモーテルにチェックインすることにする。 モーテルに向かうヴァルガスとスーザンは、その途中クインランの相棒であるピート・メンジースたちと遭遇する。すぐにクインランと会ってくれと頼まれたヴァルガスは、とりあえず妻をメンジースに託し事件の関係者に対する尋問に向かう。
概要ハンク・クインランを演じるオーソン・ウェルズ
映画製作
撮影後のトラブル
ディレクターズ・カット
ストーリー妻と新婚旅行を楽しむヴァルガス
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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