黎元洪
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黎 元洪
Li Yuanhong


中華民国
第2・4代 大総統
任期1916年6月6日 - 1917年7月14日1922年6月12日1923年6月14日
中華民国
初代 副総統
任期1913年10月10日1916年6月6日
大総統袁世凱
中華民国臨時政府
初代 臨時副総統
任期1912年1月1日1913年10月10日
臨時大総統孫文
袁世凱

出生1864年10月19日
同治13年9月15日)
湖北省漢陽府黄陂県
(現:武漢市黄陂区
死去1928年民国17年)6月3日
中華民国 直隷省天津県
(現:天津市
配偶者呉敬君

黎元洪
職業:政治家・軍人
各種表記
繁体字:黎元洪
簡体字:黎元洪
?音:Li Yuanhong
ラテン字:Li Yuan-hong
注音二式:Li Yuanhung
和名表記:れい げんこう
発音転記:リー ユエンホン
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黎元洪 (軍服)孫文と黎元洪 (1912年4月、武昌にて)

黎 元洪(れい げんこう)は、清末民初の軍人・政治家である。第2代、4代中華民国大総統は宋卿。

周囲から「謹厚」とも「柔暗」とも言われる性格のためか、清の軍人だったが辛亥革命時には反乱軍の大将に推され、また辛亥革命後の北洋軍閥政府時代には安徽派直隷派にそれぞれ傀儡として大総統に推された。反対勢力とのあいだの緩衝勢力として擁立された結果、2度も大総統となった人物[1]。軍人出身とはいえ、中華民国期には軍事力を背景としていない政治家でもあった。
生涯
清朝の軍人として

黎元洪の父は太平天国の乱鎮圧に当たった清朝の軍人であり、彼自身も軍人への道を志す。1889年天津の北洋水師学堂を卒業した黎元洪はそのまま海軍に進み、広東艦隊の巡洋艦「広甲」に機関士として乗船する。この広甲は1892年に北洋艦隊に編入され、1894年日清戦争にも参加した。同年9月の黄海海戦で乗艦の広甲が敵前逃亡後に座礁するが、泳げなかった黎元洪は命綱を頼りに漂流していたところを友軍に救助され、九死に一生を得ている。

1895年春、黎元洪は両江総督張之洞が新たに洋式海軍を組織しようとしているのを聞きつけ、南京の張之洞に面会を申し込む。張之洞の知己を得た彼は海軍ではなく新たな陸軍の創設に携わる。この時期日本に留学して軍人としての専門教育を受け、帰国後はドイツ人教官と共に新軍の訓練教官を務めた。1904年に張之洞が湖広総督に再任されると、黎元洪も随伴して武漢に赴任する。ここで改めて湖北新軍が組織され、1906年に黎元洪は湖北新軍の第21混成旅団長となる。1907年に張之洞が軍機大臣となって中央に戻ってから後も、彼は湖北新軍の将校として、武漢の治安維持(主に革命派の弾圧)に務めた。
武昌起義

1911年10月10日、武漢市の武昌で新軍内の革命派が蜂起するという武昌起義が起こる。形勢を不利と見た湖広総督の瑞澂はいち早く武昌を脱出して漢口租界に退避し、第八鎮統制の張彪もその後を追った。逃げ遅れたのは黎元洪である。翌11日正午には武昌全域が革命軍に制圧され、幕僚の劉文吉の家[注釈 1]に隠れていた黎元洪も革命派に捕らえられる。だが、ここで革命派内で意外な思惑が働いた。

武昌蜂起は突発的に発生したため革命派の主要メンバーは武漢にいない[注釈 2]が、革命を進めるためにはそれなりの地位にある人物を「表看板」として掲げる必要がある。

黎元洪は将兵からも尊敬されており、革命派の主張する「民間鉄道会社の国有化反対」にも理解を示している上、英語を話せるので諸外国の革命政府承認も得られやすいだろう。

この2つの思惑から、革命派はこれまで革命派を弾圧してきた黎元洪に対して湖北の暫定的な司令官になるよう迫った。最初は身の危険を感じて渋々軍政府湖北都督に就任した黎元洪だが、次第に革命に積極的になっていく。11月30日には革命軍司令官に就任し、12月4日には革命派の代表として清朝の軍機大臣(事実上の総理大臣)である袁世凱と停戦交渉を行った。

いつのまにか革命の中心人物となっていた黎元洪だが、武昌蜂起の後には14の省が続々と清朝からの独立を宣言しており、「革命政府をどこに置くか」「革命政権の主導者を誰にするか」で意見がまとまらず、武昌派と上海派に分かれていた。そこでアメリカから帰国したのが中国革命同盟会孫文である。結局論争は孫文で一本化し、1912年1月1日、孫文が南京中華民国臨時大総統に就任する。妥協案として黎元洪は副大総統に就任する。
中華民国副大総統

孫文の大総統就任によって中華民国が成立したが、黎元洪としては武昌以来革命軍を指揮して来たのは自分のはずなのにと面白いはずもなく、大総統への道を模索して活動を続ける。この後の1912年3月1日に、孫文は清朝宣統帝の退位と引き換えに臨時大総統の職を袁世凱に譲るが、袁世凱は「副大総統職に黎元洪を留任」という条件で黎元洪の賛成を引き出す。こうして清朝は滅亡し、南北の中国は再び統一される。

下野したものの袁世凱の強権的手法に反対した孫文らは、1913年9月に「第二革命」を起こすが袁世凱の軍事力の前にあっけなく撃退され、孫文らは日本に亡命を余儀なくされる。こうして国内の革命派を一掃した事で、10月に袁世凱は正式に中華民国大総統に就任した。

第二革命の際には袁世凱を支持した黎元洪だったが、袁世凱からは「潜在的脅威」と見なされ、10月の大総統就任後は袁世凱のお膝元である北京に押し込められ、自由を奪われてしまう。「副大総統」の役職にはそのまま残ったが、何の実権もない名誉職のようなものにされてしまった。袁世凱にしてみれば黎元洪は袁の直属の部下である北洋軍閥の出身ではないし、南京政府時代の革命家との交流もあったため、今一つ信用しきれなかったのだ。だが袁世凱は黎元洪を切り捨てる事はせずに、自分の息子を黎元洪の娘と結婚させたりと、関係強化に努めた。

1915年12月に袁世凱が帝政の復活を宣言すると国内外から一斉に反発の声が上がる。1916年には帝政に反対する一派から黎元洪に大総統就任を唆す声がかかった。袁世凱に反旗を翻す事は生命の危険につながると思った黎元洪はこれを断るが、同時に皇帝となった袁世凱が与えようとした武義親王の称号も固辞した。結果的にはこのバランス感覚が彼の政治生命を延命させる事になるのだが、この後1916年6月6日に袁世凱が亡くなるまで自宅に隠棲する日々を送る。
中華民国大総統 (第1期)

黎元洪は袁世凱の後を継いで1916年6月7日から1917年7月17日まで大総統を務めた。「袁世凱の後継者」としてなら北洋軍時代からの側近の段祺瑞馮国璋徐世昌が大総統を継ぐべきところだが、それでは帝政復活宣言以来反乱まで起こしている梁啓超ら南方の護国系が納得しない。それに北洋軍閥内にも派閥があり、その中の誰が大総統になっても北洋軍内にしこりが残る。それならば先ずは国内の安定を、と「中華民国の後継者」をアピールできる黎元洪を大総統に昇格させるという、無難といえば無難な人事で落ち着く結果となった。もっとも、この人事を決めた北洋軍閥にしてみれば、大総統とは言ってもあくまで傀儡であり政治の実権は政事堂国務卿[注釈 3]が握るものと考えていたが、黎元洪は袁同様に大総統としての権力を行使する挙に出る。こうした誤算が、大総統府の長である黎元洪と国務院の長である段祺瑞の政争「府院の争い」を招来することとなった。

この争いは1917年5月23日に黎元洪が段祺瑞を罷免した事で一応の決着をみた。だが段祺瑞が下野したとたん、北洋軍閥系の督軍が続々と中華民国からの独立を宣言した。慌てた黎元洪は徐州にいた非参戦派の張勲に督軍団との仲裁を依頼する。6月7日、張勲の手勢4,300名の兵が入京してくる[注釈 4]。北京を武力制圧した上で6月8日、黎元洪に対して国会の解散を要求する。背に腹は変えられないと黎元洪はこれを了承、国会を解散するのだが、民国期になっても辮髪を止めないほどの保守派である張勲はここぞとばかりに立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、7月1日に清朝宣統帝を復位させてしまう(張勲復辟)。

黎元洪は日本公使館に避難し、7月3日にそこで段祺瑞と馮国璋に張勲の軍の制圧を依頼する。7月5日には段祺瑞を再度国務総理に任命し、7日には馮国璋を大総統代理に任命した。表舞台に舞い戻った段祺瑞の北洋軍閥はあっけなく張勲の軍を打ち破り、7月12日には北京を制圧、段祺瑞は7月14日に悠々と北京入京を果たしている。


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