黄金町
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 神奈川県 > 横浜市 > 中区 > 黄金町

黄金町
町丁
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度26分25秒 東経139度37分27秒 / 北緯35.440297度 東経139.624047度 / 35.440297; 139.624047
日本
都道府県 神奈川
市町村 横浜市
行政区中区

人口情報(2024年(令和6年)3月31日現在[1]
 人口240 人
 世帯数198 世帯

面積[2]
 0.017 km²
人口密度14117.65 人/km²
設置日1889年明治22年)4月1日
郵便番号231-0054[3]
市外局番045(横浜MA[4]
ナンバープレート横浜
ウィキポータル 日本の町・字
ウィキポータル 神奈川県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
テンプレートを表示

黄金町(こがねちょう)は、神奈川県横浜市中区の町名。下町かえのが、または京浜急行電鉄黄金町駅の所在する南区から初音町、黄金町、日ノ出町までの中区を含む大岡川沿い一帯の通称である。現行行政地名は黄金町1丁目および黄金町2丁目(字丁目)。住居表示は未実施区域[5]
歴史
前史

元々は久良岐郡太田村の内で、1869年に黄金町が成立した。哲学書『淮南子』(えなんじ)の「清水有黄金金龍淵有玉英」の一節から町名を採ったとされる。かつては水田であった関外地区も、明治時代にもなると横浜の中心部、関内地区の発展に伴って都市化が進んだ。

1889年明治22年)4月1日、横浜市の市制施行により、横浜市黄金町となる[6]

明治の中頃には、大岡川に加えて吉田新田内の水路などの河川網が、関内・関外地区を巡り人や物を運ぶ重要な輸送路として確立した。川を航行したのは主に、石材、木材などの建築資材をはじめ、石炭、食料品、肥料、生活用品など様々な貨物を扱う(はしけ)と呼ばれる無動力の小型運搬船であった。艀には色々な種類があるが、1890年(明治23年)前後から、堅固で多くの貨物が運べるだるま船が主流になった。

開港以後、当時の大岡川河口、現在の野毛地区の川沿いには米問屋など、荷物の運搬に水運を利用する卸売業者が増えていき、その傾向が日ノ出町の川沿いまで広がって、黄金町の木材問屋などが出来たと見られている。このようにして、黄金町や日ノ出町には問屋などの商業が増え始め、町が出来上がっていった。川べりは桜並木ではなく柳並木であった。柳は枝の揺れる姿が人を招く、と言われて商業地域では好まれ、その風習が柳並木となっていた。

関東大震災前の初音町通りは、初音町交差点から東小入口信号間と並行した一本裏の赤門町寄りの通りで、伊勢佐木町通りに負けないほど賑やかであった。なお、平戸桜木道路はまだなく震災以後に野毛の方から井土ケ谷に向けて真っすぐの通りが出来た。

1丁目には戸部銀行太田支店があり、3丁目には富崎工場という大きな染色工場があり、女工が120人ほどいて輸出の品物を作って盛んだった。日ノ出町は静かな町で7つ以上の病院があり病院町といわれるくらいであった。西側には桜の木が植えられ、お屋敷町ともいわれた。
関東大震災以降

関東大震災時、初音町辺りの1丁目から3丁目までは一直線に地割れが走った。当時、末吉橋を湘南電気鉄道(現:京浜急行電鉄)が通る予定であったため、その下が空地になっていた。近所の銭湯のそばの水道管が破裂し水が湘南電気鉄道の空地に流れ、まるで川のようになった。火災が発生し、逃げ場がなくなった人々は次々に空き地に逃げてきたが、400人もの人々が折り重なって死んだ。

初音町・日ノ出川界隈は震災後、家並みがガラッと変わる。日ノ出町2丁目の山側にある「子の(ねの)神社」は震災前は黄金橋の川っぷちにあり、土手に松がなびいてとても良いお宮であった。震災後の復興道路網整備と土地区画整理事業が行われ、かつて「陣屋の原」と呼ばれた原っぱだった現在の場所まで約150メートルほど移動した。横浜市立東小学校の辺りは、元はダラダラの坂で、上の方には金持ちが、下に降りるに従ってそうでもない人達という具合に住んでいた。震災ですっかり焼け、その後学校を建てることになり土地を平らにした。東小学校の前にある公務員合同宿舎は横浜で有数の資産家で貴族院議員上郎清助のお屋敷跡であり、道が狭かったため金力に物を言わせ太い道に直したという。

1930年(昭和5年)4月に湘南電気鉄道(現:京浜急行電鉄)の黄金町駅が開業。黄金町 - 浦賀間で営業運転を開始した。開業当時駅前に賑やかさはなく初音町通りの方が賑やかであった。翌1931年12月には黄金町 - 日ノ出町間が開業し、京浜電気鉄道と連絡 横浜駅への乗り入れを果たした。さらに1933年4月には品川 - 浦賀間で京浜電気鉄道と相互に直通運転を開始した。日ノ出町駅前は砂利が敷いてあり原っぱであった。太田陣屋の由来が書いてある木製の三角形の札が立っていたという(1859年(安政6年)の横浜開港の際、横浜の警備を命じられた越前福井藩主松平越前守茂昭が越前陣屋(太田陣屋)を置いた所である。)

1945年5月29日午前の横浜大空襲で黄金町駅付近一帯は一番の人身の被害を受けた。黄金町駅では上下電車の到着と同時に空襲警報が発令され、多くの地域住民も周囲の建物が疎開で取払われたこともあり乗客乗務員と共に鉄筋コンクリートで覆われた高架線下に退避していた。付近では戦闘機が低空で機銃掃射を繰り返し、逃げ惑う人々が吸い込まれるように高架下に身を隠した。そこへ不幸にも焼夷弾数発が命中し、焼夷弾炸裂と同時にホームから地上に向い火砕流が発生した事から600名以上の犠牲者が出た。

駅周辺は強制疎開で大きな広場が出来ていたことから付近一帯の死体が運び込まれたため、終戦後、供養のため地蔵尊が駅前に建立された。この地蔵尊は駅前開発の際に福智山普門院不動寺(南区西中町)に移設されている。
戦後の売春・麻薬街時代

戦前から大岡川の船運を活用した問屋街として栄えた黄金町であったが、終戦後は高架下にバラック小屋の住居が集まり、次第に飲食店に変わっていった。そんな店の中から女性が客を取る店、いわゆる「ちょんの間」が現れ、いつしか関東でも屈指の「青線地帯」として知られるようになる。福富町や長者町方面は「戦時住区」という指定地区になり24時間中に立ち退き命令が出た。その命令で移り住んできた人は福富町、長者町、住吉町の人達で、初音町の広い通りには住吉町界隈の人、日ノ出町には長者町から来た人、赤門には福富町の人がそれぞれ移ってきた。そのため今までのお屋敷町はガラっと変わってしまった。とにかく空いている所に皆転入をした。時が時なので地主も入ってしまった人に立ち退けとは言えず、結局、入った人達が後に借りることになった[7]

日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸にはバラック群がずらりと建ち並び(大岡川スラム)、さらにはしけを転用した不法の水上ホテルが28隻も浮いていた。この船は1950年代半ばまで目撃されており、映画『密航0ライン』(鈴木清順・監督 日活)にも登場している。1954年に強制撤去が行われ、地上へと移った。

「青線地帯」「大岡川スラム」で悪名をはせる一方、戦後の黄金町はヒロポンヘロインといった麻薬密売の温床でもあった。特に昭和20年代は、大岡川を境界に密売組織による縄張り争いが頻発した[8]。警察官の巡回すら身の危険を感じてできない程荒んだ環境であったという。

特殊飲食店(外観や届け出は飲食店や旅館を装っているが、実際は売春を目的とした店[9])街は1958年(昭和33年)の売春防止法施行後、一旦大人しくなったが、その間隙を縫って麻薬の売買が盛んになった。その臨界点は1962年(昭和37年)7月6日で、警察の取締で供給源を断たれた200人余りの中毒者が路上に飛び出し、禁断症状を起こした[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:63 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef