黄金の自由
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共和国の権力の頂点をなす1573年の国王選挙、ヤン・マテイコ

黄金の自由(おうごんのじゆう、ラテン語:Aurea Libertas アウレア・リベルタス、ポーランド語:Z?ota Wolno?? ズウォタ・ヴォルノシチ)、貴族共和国または貴族民主主義とは、ポーランド王国およびルブリン合同1569年)後のポーランド・リトアニア共和国において機能した、貴族支配による民主主義の政治システム。このシステムの下では、領地を有する全ての貴族(シュラフタ)が法的に平等であり、きわめて多くの諸特権を享受していた。この特権に基づき、貴族階級は立法府であるセイム(ポーランド議会)を構成し、国王を選挙によって選出していた(選挙王政目次

1 『国王は君臨すれども統治せず』

2 内容

3 評価 - 対立から亡国へ

4 類似したシステム

5 脚注

6 外部リンク

『国王は君臨すれども統治せず』

この政治体制は、貴族身分(シュラフタ)が都市民・商工業者(ブルジョワジー)や法曹など他の諸身分と国王を政治の場から排除したことにより強固なものとされた。シュラフタはニヒル・ノヴィ(1505年)、ヘンリク条項(1573年)、そしてその後に結ばれた数多くのパクタ・コンヴェンタ(選出時における国王と貴族との契約)を通じて諸特権を集積してゆき、君主が彼らの特権に手出しする事は許されなかった。この連合共和国家における政治原則とは「我々の国家は国王の監督のもとにある共和国である」というものだった。

16世紀の開明的な大宰相ヤン・ザモイスキはこの原則を「国王は君臨すれども統治せず "Rex regnat et non gubernat" 」と要約している。この言葉は他国でもよく使用され、イギリスや過去のドイツの政体などを表す際に引用されるが、実はこれを歴史上世界で初めて述べたのはヤン・ザモイスキであり、ポーランドの政体のあるべき姿、すなわち政治の合議制、民主主義について述べたのである。独任制専制はポーランド社会にそぐわないものとされた。この時代、この合議制の原則によりポーランドは欧州でもっとも強力な国家へと大発展した。この時代は合議制の原則が国家の発展にとって望ましい方向にのみ作用したのである。それは、イギリスの歴史学者ノーマン・ディヴィスが指摘するように、当時のポーランドが共通の政治的価値観を持ち、自身の利害よりも国家のあり方を優先した、社会的責任の意識と哲学的な水準が非常に高い知的な人々の集まりによって運営されていたからである。
内容

国家の頂点にあるのは選挙で選ばれる国王、上院、そして飛びぬけた権力を備えたセイムの三者であった。国王にはヘンリク条項と選出時に取り決められるパクタ・コンヴェンタによって、市民(つまりシュラフタ)の権利を尊重することが義務づけられていた。国王は大勢の貴族層の意向により、その権力をかなり制限されていた。歴代の国王は、ポーランドの政治システムの根幹(そしておよそ確立されているとは言い難い宗教的寛容の根幹)をなすと見なされた、ヘンリク条項を承認することを余儀なくされた。やがてヘンリク条項はパクタ・コンヴェンタの中に組み込まれ、国王選出に際しての重要な誓約の一つになった。

「黄金の自由」(この語はヤギェウォ朝断絶直後の1573年から使われ始めた)の政治システムは、以下の原則をその基礎としていた。

国王自由選挙…国王は投票を希望する全てのシュラフタによる自由選挙によって選ばれる。

セイム(下院議会)…議会であるセイムは国王によって2年ごとに召集される。

パクタ・コンヴェンタ(議会に関する契約)…即位時に国王と貴族(国政参加者)とが取り決める契約。諸権利の請願も行われる。国王の政治行動を束縛し、ヘンリク条項に起源を持つ。

ロコシュ抵抗権あるいは強訴権)…シュラフタは、彼らに保障されている諸特権が国王によって脅かされた場合、反乱(強訴)を起こすことを法的に認められる。

リベルム・ヴェト(自由拒否権)…個々の地方代表が、セイムでの決議において多数派の意見に反対出来る権利。セイムの会期中、法案をことごとく廃案にしてきた「無制限の拒否権」といったニュアンスで語られることが多い。17世紀後半の危機の時代に入ると、リベルム・ヴェトは地方議会であるセイミクにも適用された。

コンフェデラツィア(政治連盟)…共通の政治目的のために団体(政党会派)を結成する権利。

共和国の政治システムには単純な枠組みを適用することは難しく、様々なモデルを当て嵌めて説明されているため、統一的な見解がない。

共和国の性格に関して、国家連合連邦、二国家それぞれの自治体制(つまり両国の地位は対等)のどれだったかという問題。共和国を三者のうちどれだったかと判断することは難しい。逆にこの三者の全てであったとも言える。どれか一つとは言えないのである。

寡頭制なのかどうかという問題。シュラフタのみが参政権を持っていたと言っても、彼らの階層は人口の約10%を占めていたのであり、少数者による支配というイメージとはずれがある。

全てのシュラフタに等しい権利と特権が与えられる民主政治。シュラフタの間では当然のことながら財産の多寡はあり、ヨーロッパで最も裕福とも言われた大資産家からまったくの無産者までさまざまな者がいたが、彼らの間に法的な身分の上下は一切なく、法的には全てのシュラフタが平等の政治的権利を有していた。彼らの拠るセイム(国会)が立法外交宣戦布告課税(既存の税制の変更、新しい税の制定)といった重要な事項について国家の主導権を握り、国王の政策に反対することもできた。共和国は当時のヨーロッパ諸国の中で最も高い、約10%の参政権者を抱えていた。フランスでは1831年の時点で人口の約1%、1867年イギリスでは約3%に参政権が与えられているに過ぎなかったのとは対照的である。

選挙王制。シュラフタによって選出される国王、つまり世襲君主でない国王が国家の首長であること。

立憲君主制、つまり君主がパクタ・コンヴェンタやその他の法律によって制約されており、シュラフタは国王が法的に不正な行為をしている場合は従う義務はないとされた。セイム(国会)はしばしば国王の政策に反対し、それを阻止してきた。

評価 - 対立から亡国へ

「黄金の自由」は極めて特異でその評価には論争の多い政治システムである。それはヨーロッパの主要国において絶対主義が支配的だった時代において、例外的に権力の強い貴族の支配と、弱体な王権とで構成される点で特徴ある性格を有していたし、ある種の近代的価値と似通った要素を備えていた。ヨーロッパが中央集権化、絶対主義、宗教戦争や王朝による争いに直面している時期、共和国は地方分権国家連合連邦制民主政治、宗教的寛容さらには平和主義までも経験していた。シュラフタがしばしば国王による戦争計画を廃案にしたことは、民主的平和論に関する論議に相当するものとさえ見なされる。


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