黄金の矢、ゴールデン・アロー(英語: Golden Arrow)またはフレッシュ・ドール(フランス語: Fleche d’Or)は、イギリスのロンドンとドーバー、およびフランスのカレーとパリの間を走っていた列車である。ドーバー - カレー間の連絡船とあわせてロンドンとパリを結んでいた。ただし車両航送は行なっておらず、乗客はドーバーとカレーで二度乗り換える必要があった。
1926年に運転を開始した。イギリス側ではプルマン社が、フランス側では国際寝台車会社(ワゴン・リ社)が運行にあたった。もとは一等のサロン車(プルマン車)のみで編成される列車であったが、第二次世界大戦による中断を経て1950年代以降は一般の客車が主となった。プルマン車の連結はフランス側は1968年、イギリス側は1972年に打ち切られた。
イギリス側の列車をゴールデン・アロー、フランス側をフレッシュ・ドールとして区別することもある。 アメリカ合衆国発祥のプルマン社は、1871年イギリスに現地法人(ブリティッシュ・プルマン)を設立して列車の運行事業を始め、1872年には大陸ヨーロッパにも進出していた[1]。一方同じ1872年にベルギーでは、プルマンの事業にヒントを得た国際寝台車会社(ワゴン・リ社)が創業された。ワゴン・リ社は一時マン・ブドワール寝台車会社に買収された後、1876年に再度設立されている[2]。両社は激しい競争を繰り広げたが、1886年の協定でプルマン社は大陸ヨーロッパから撤退し、車両と列車の運行権をワゴン・リ社に売却した[1]。 イギリスのプルマン社は1907年にアメリカの会社と分離された。プルマンとワゴン・リの両社は1907年、1923年にも協定を結んで協力関係を深めた[1]。1924年には、プルマン社長のダヴィソン・ダルジール
歴史
背景
プルマンとワゴン・リ
当時ワゴン・リ社が運行していた車両は寝台車と食堂車のみであったが、プルマン社では昼行列車用のサロン車も保有していた。1925年以降、ダルジールの方針によりワゴン・リ社でも同様の客車を連結した昼行列車を運行するようになった。なお1923年の契約により、こうした車両を「プルマン車(voiture Pullman)」と呼ぶことが認められていた[4][1]。 ドーバー、カレーを経由するイギリスとフランスの連絡は、両国の鉄道網の黎明期から重要視されていた。1882年にはカレーに連絡船の岸壁と直結したカレー・マリティーム駅
英仏連絡列車
1924年11月17日、プルマン社はロンドン - ドーバー間に「コンチネンタル・エクスプレス(Continental Express)」と名付けた列車の運行を始めた。これはロンドンから南東イングランド方面では唯一のプルマンの列車であった。ワゴン・リ社ではこの列車を「ロンドン・プルマン(London Pullman)」と呼んで宣伝した[4]。
第二次大戦前パリ北駅を発車するフレッシュ・ドール
1925年11月12日、ワゴン・リ社はプルマン社から借りた車両を用いてパリ - カレー間で列車の試運転を行なった。これが好評であったことから、ワゴン・リ社は「プルマン列車」の本格運行のため追加の車両を発注した[6]。
1926年9月11日、ワゴン・リ社はパリ - カレー間でプルマン車による列車「フレッシュ・ドール」の運転を始めた[5]。列車名の「オール(金)」はワゴン・リ社の創立50周年[注釈 2]に因んだものである。またプルマン社の宣伝では「金襴の陣」の故事に言及している[4]。
1929年には、イギリス側のコンチネンタル・エクスプレスがゴールデン・アローと改名された。同時にゴールデン・アロー、フレッシュ・ドールの乗客専用の連絡船として「カンタベリー(Canterbury)」が就役した[4]。1929年時点でロンドン - パリ間の所要時間は6時間35分であった[6]。
1931年からはイギリスのゴールデン・アローはサザン鉄道の一般の客車も連結した列車となった[4]。このころには世界恐慌の影響により、一等専用だった豪華列車にも二等車や三等車を連結せざるを得なくなっていた[3]。