黄金のバラ
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ジュゼッペ及びピエトロ・パオロ・スパーニャによる黄金のバラ。ローマで1818-19年頃に作成された。現在はウィーンホーフブルク宮殿にある。

黄金のバラ(おうごんのバラ、: Rosa d'oro)は、装飾品であり、ローマカトリック教会教皇が伝統的に祝福するものである。黄金のバラは時折、敬意や愛情の証として贈られる。受領者には教会や聖地、王族や軍隊、政府も含まれてきた。
重要性と象徴性シエナのミヌッチオの黄金のバラ。ヨハネス22世からヌーシャテル伯のルドルフ3世に与えられたもの。

黄金のバラは四旬節の第4日曜日(「バラの主日」(en)としてもよく知られる)に祝福される。バラの主日には祭服の色が、悔悟の紫から、希望と喜びを象徴するバラ色(ローズピンク)に代えられる。四旬節のほとんどの期間を通じて、カトリック教徒は「祈り」「断食」「懺悔」そして、悪意による罪とそれがもたらす負の影響について黙想する。これは「バラの主日」はゴルゴタの丘におけるキリストの死を振り返る時節であり、その先にある(キリストの復活の)喜びと栄光の復活を迎える為である。美しい黄金のバラはキリストの栄光の復活と威光の象徴とされる。(聖書中、救世主は次のように称えられている。「わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。[1]」)

バラの香りについて、レオ13世は次のよう記している。「キリストに誠実に付き従うものたちによって広がる、主の甘い香りを表す (Pontificis Maximi Acta, Vol. VI, 104)」。また(そのバラの)茨と花びらの赤き色合いは、イエスの血にまみれた受難を示しているとした。

多くの教皇は黄金のバラを授ける際にその神秘的な意義について言及してきた。インノケンティウス3世は「レターレ[注 1]の日曜日(バラの主日)、この日によって、憎しみの後の愛、悲嘆の後の歓喜、空腹の後の満腹へと分け隔てられる。そう、黄金のバラはその色、香り、味わい、愛、喜びと満ち足りた状態によってそれを示すものだ」とし、イザヤ書の第11章1節「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び[3]」におけるその花と比較した。
現代のバラまでの歴史と発展
作品

シクストゥス4世(在位 1471年-1484年)の時代よりも前は、黄金のバラは単純な構成をしており、純金で作られた単一の花でわずかに赤く染められたものだった。その後、この装飾品は神秘性を保ちながらも飾り付けられることとなり、金は染められずに、ルビーや貴重な宝石がバラの中心部や花弁に置かれるようになった。

シクストゥス4世は、単一のバラであったものを、茨の枝に多くの(10かそれ以上の)バラと葉がついたものに置き換えた。そのうちもっとも大きいバラは、周りを取り囲むもっと小さなバラのついた枝の頂上からはねたように飛び出したものであった。主要となる大きなバラの中心には穴が開いていて、覆いのついた小さなティーカップのようになっており、その中にムスクバルサムがバラを祝福にするために教皇により注がれる。この装飾品全体は純金製である。この「シクストゥス風」のデザインはその装飾や大きさ、重さ、価値を多様に変化させながら維持されている。当初は高さが7.5センチメートル強ほどで小さく、教皇がサンタ・クローチェ・イン・ジェルサレンメ聖堂からラテラノ宮殿までの行進の際、右手で大衆に祝福を与えるとき、左手で持ち運ぶことが容易であった。のちに、特に花瓶とその台座も装飾品の一部となったときは、強健な聖職者がそれらの装飾品を運ぶ必要があり、教皇の十字架(英語版)に先んじて行進で運ばれた。ヨーゼフ1世の妻であるアマーリア・ヴィルヘルミーネインノケンティウス11世から贈られたバラは9キログラムほどあり、高さが約45センチメートルあるものであった。そのバラは花束の形をしており、たくさん曲がりくねりながら一緒に茎の頂点まで到達する3つのねじれた枝が、大きなバラの花と葉の集まりを支えていた。
花瓶とその台座

黄金のバラを支える花瓶とその台座は様々な素材、重さ、形をしている。初期のころは金でできていたが、のちにしっかりとした銀メッキと金で作られるようになった。台座は三角柱、四角柱、八角柱のどれかの形で、様々な装飾品やレリーフで豪勢に装飾された。通例の署名に加え、作成者である教皇と祝福と授与者の紋章が台座に彫刻される。
装飾の価値バチカン図書館にある黄金のバラ

バラの価値はそのときどきの教皇の気前のよさや、その時代の経済状況によって異なる。イエズス会士であったバルダサーリ神父によると (De Rosa Mediana, p.190)、1650年ごろに与えられたバラは、おおよそ16,956ドル[注 2]と言われる。アレクサンデル7世によって贈られた二つのバラはおおよそのところ、それぞれ27,129ドル[注 3]と40,693ドル[注 4]の価値があった。クレメンス9世フランス王妃に贈ったバラはおおよそ40,693ドルで、3.6キログラム(8ポンド)の重さの金で作られていた。このバラを作った職人の技術はとびぬけて優れており、その職人は10,173ドル[注 5]を報酬として得た。計47,476ドル[注 6]の費用をかけてインノケンティウス9世は、3.8キログラム(8.5ポンド)ほどの金を使ったたくさんのサファイアで飾られたバラを作った。19世紀には67,822ドル[注 7]以上の費用がかかるバラは少なくなかった。[4]
起源

バラを与えるという習慣は、古代にカトリックの統治の印である金の鍵が聖ペトロの告解によりもたらされた例に倣ったものであり、この慣習はグレゴリウス2世あるいはグレゴリウス3世に依ってはじめられたとされる。この黄金のバラと金の鍵の関連についてはある類推が存在する。二つはともに有名なカトリック教徒としての教皇により祝福され授けられた純金を用いて作られていること。また、バラにはムスクバルサムが含まれ、鍵は聖ペテロの司教座(教皇の祭壇)に収められていることから、どちらも聖遺物容器(聖骨箱)を連想させることである。

黄金のバラの習慣ができた正確な日時は不明であり、シャルルマーニュの時代より前とも、12世紀終わりに起源をもつとも言われているが、レオ9世(在位:1049年 - 1054年)が黄金のバラは古代からの習慣であると述べているので、1050年よりは前に起源をもつと確実視されている。

(今も行われている)伝統的な慣習は教皇がアヴィニョンに移された頃に始まったもので、教皇の宮廷(英語版)において、もっとも相応しい君主・諸侯に与えられた。この慣習は教皇権がローマに戻った後も続けられ、厳粛な儀式において教皇からバラを受け取った貴族は、教皇の住む宮殿から居住地まで枢機卿団に同伴されるものだった。17世紀の初頭からは、黄金のバラは王妃、王族の女性、傑出した貴族にのみ贈られるようになり、皇帝や諸王(君主)、その他王族の男性には祝福された剣と帽子(英語版)がより適した贈り物として贈られるようになった。しかしながら、相応しいカトリックの皇帝や君主、あるいは有力な王族の男性がバラの主日にローマにいた場合、バラも一緒に受け取るものであった。

ローマの外に住む人に黄金のバラを運んで授ける任務は、教皇によってレターレと呼ばれる枢機卿の使節、教皇庁使節(英語版)、教皇庁公使(英語版)、教皇特使(英語版)に与えられた。1895年には、「黄金のバラの使者」や「黄金のバラの保持者」と呼ばれる王室のメンバーに与えられる新しい役割(世襲ではない)が制度化され、教皇公邸管理部(英語版)の階級にあたる、外套と短剣に携わる秘密侍従に割り当てられたが、いまはもう存在しない。
バラの祝福ベネディクト16世からアメリカの無原罪の御宿りバシリカ(en)に贈られた黄金のバラ

最古のバラは祝福を与えられていなかった。それよりもむしろ、祝福は儀式をより厳粛なものにし受取人の大きな威厳を引きだすために導入された。ペトラ枢機卿の記録 (Comment. in Constit. Apostolicas, III, 2, col. 1) によると、インノケンティウス4世が最初に祝福を与えたとされる。これには他の主張もあり、インノケンティウス3世アレクサンデル3世レオ9世などが始まりだったとの説もある。別の説では、1951年にレオ9世がフランケンバンベルクの女子修道院に恩恵を施したもので、祝福されるように黄金のバラを与え、毎年のバラの主日に運ばせた、とテオフィル・レイノー[注 8]は主張した (De rosa mediana a pontifice consecrata, IV, 413)。


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