黄遵憲
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黄遵憲黄遵憲黄遵憲の肖像画(『清代学者象伝』)

黄 遵憲(こう じゅんけん、道光28年3月24日1848年4月27日) - 光緒31年2月23日1905年3月28日)、満56歳没)は、清朝末期の詩人外交官・政治改革者であり、また知日家としても知られる。
生涯
挙人となるまで(1848年?1877年)

は公度。人境廬主人や観日道人、東海公、法時尚任斎主人、水蒼雁紅館主人といった号を持つ。広東省嘉応州(いまの梅州市)の人。生家は南宋以来続く客家である。ただ客家といえど、一族より代々挙人8人を出し、うち1人は進士となっており、その地方では有力な一族だったといえる。父黄鴻藻(こうこうそう)も挙人でありながら地方官を歴任し、最終的に知府にまで上っている。

世界地誌『瀛環志略』(えいかんしりゃく)が刊行され、中国の人々の眼が漸く海外へと向けられつつあった1848年(道光 28年)に黄遵憲は生を享けた。幼少より青年となるまでの期間は太平天国の乱が起こっていた時期にほぼ重なっているために、多感な年頃の黄遵憲本人に多々影響を与えている。たとえば黄遵憲は18歳のとき葉氏を妻として迎えているが、その数日後に太平天国軍が州城に押し寄せて避難を余儀なくされ、留守となった実家も大規模な質屋を経営していたために狙われ、莫大な損害を受けている。その苦難のためか詩集『人境廬詩草』(じんきょうろしそう)では、太平天国滅亡を喜ぶ「感懐」という詩が冒頭を飾っている。彼が太平天国に怒りを覚えているのは当然であるが、注目すべきなのは効果的な対策を打てない清朝の官僚にも怒りの矛先を向けている点である。黄遵憲が生涯抱き続ける実用的でない科挙と実務に長けてない官僚への不信不満は、おそらくこの時のことが根本にある。そしてこの不信不満こそが彼の進路を方向付け、そして改革へと駆り立てたのだと言えよう。幾度かの試験失敗の後、29歳の時に挙人となり、以後政治の表舞台へと登場する。
外交官時代(1877年?1894年)

挙人となって数ヶ月後、日本公使に任命された何如璋(かじょしょう)に従い、参賛(書記官にあたる)として明治日本に同行した。これは日清修好条規に基づき派遣されたものである。当時外交官という職は官歴という点からいってエリート街道にあるものではなかった。長男でもあった黄遵憲には家族や知人より引き続き科挙の勉強を続けて進士となることを望む声が寄せられたが、彼はこの道を躊躇無く選んだ。進士となっても就職難であったことや、非実用的な科挙のための学問に時間を費やすことに耐えられなかったことがあるが、最も大きい理由は一刻も早く政治の世界に身を置き、衰運の見える祖国のために働きたいという思いが黄遵憲に強かったからであった。
日本への赴任

黄遵憲は到着してからおよそ4年間日本に滞在し、政府要人との折衝や情報収集に奔走した。当時日本と清朝の間には琉球処分李氏朝鮮を巡る懸案が存在しており、公使団は難しい舵取りを余儀なくされていた。琉球処分では当初公使団は強気に交渉したものの、本国にいる大官 李鴻章(りこうしょう)との考えの違いや国力の差から日本に押し切られ、煮え湯を飲まされる結果となった。しかしその交渉過程でまず富国強兵ありきという認識を持つようになり、日本の軍近代化に注目するようになるのである。

つづいて持ち上がった問題が朝鮮の扱いであった。朝鮮は中国歴代王朝の朝貢国として位置づけられてきたが、今後もそれと同様の関係を維持したい清朝と、その影響を排したい日本の間で角逐が生じた。当時朝鮮は鎖国を国是としていたが、何如璋や黄遵憲は朝鮮が清朝の指導のもと開国し、諸国と条約を結ぶ方が清朝・朝鮮共に得策だと考えるようになっていた。これは滞在していた日本に影響を受けている。当時日本ではロシアの南下に極めて警戒感を持っており、朝鮮がロシアの影響下に入ることを極度に恐れていた。こうした意見に感化され、黄遵憲たちは日本よりもロシアへの警戒を募らせていったのである。また同時期結ばれたサン・ステファノ条約によりトルコがロシアに屈しながら、他のヨーロッパ諸国の干渉により逆にロシア側が譲歩せざるを得なかったことを知り、多くの国と条約を締結しておいた方が紛争発生時に第三国からの干渉を期待できると計算したためでもある。

この考えを朝鮮側に伝えるため、第二回 修信使として日本に来ていた金弘集と黄遵憲は面会し説得につとめ、さらに『朝鮮策略』を手渡した。その外交論は以下のような骨子を持つものであった。
清朝と朝鮮との宗属関係の強化。

日本やアメリカと連携すべき事。そのためにアメリカと早くに条約を締結すること。

通商を拡大し、西欧から軍事や工業技術を学び、富国強兵を図るべき事。

これを金弘集が祖国に持ち帰り、朝鮮の外交を鎖国論から開国論へと転回させるきっかけとなったのである。

黄遵憲は、外交交渉において日本と激しいやり取りを交わしたが、いたずらに反発せず、明治日本から学ぶべき点があることを悟った。また後述するように多くの日本人の知己を得ており、文化交流を促進している。単なる知日家ではなく、日中友好を近代最初に唱えた人でもある。
アメリカへ

1882年光緒 8年)、サンフランシスコ総領事へと転任し、日本を離れた。当時のアメリカには20万人に及ぶ出稼ぎ華僑がいたが、低賃金で働かされるなど人権が守られているとは言い難い状況にあった。清朝はこの状況を知りながらも、アメリカに遠慮して特に問題として取り上げず傍観に終始した。こうした雰囲気の中黄遵憲は着任したのである。折しも華僑を雇用することを禁ずる法律や華僑入国を制限する法律が施行されるなど排斥の機運(中国人排斥運動;英名Chinese Exclusion Act)が高まると、トラブルに見舞われる華僑が増加し、それとともに黄遵憲が交渉に乗り出す機会も増えた。たとえば衛生を口実に華僑が収容所に投ぜられると、わざわざ総領事自ら出向き、収容所の役人を詰問し釈放させたという。在米華僑問題への思いは「逐客篇」という詩に詳しい。この中で初代大統領ジョージ・ワシントンが万国と国交を持ち、いかなる民族も平等に住むことができると宣言してより百年も経たないのに、今のアメリカ政府はその言葉に背いても恥としない、と述べており、自由・平等を国是とするアメリカにおいてなされる非人道的な行為に黄遵憲が怒りを覚えていたことがうかがえる。

3年後黄遵憲は一旦帰国し、『日本国志』(にほんこくし)の完成に専念した。そのため張蔭桓(ちょういんかん)や張之洞(ちょうしどう)が外交官として再度着任するよう促しても固辞したという。その10月には『日本国志』編纂の副産物ともいうべき『日本雑事詩』(にほんざつじし)を『日本国志』に先んじて刊行している。『日本国志』は1887年頃に完成し李鴻章らに提出されたが、光緒帝(こうちょてい)の師翁同?(おうどうわ)や総理衙門章京であった袁昶(えんちょう)など一部の人々に評価されるにとどまり大きな反響は無かった。


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