黄興
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この項目では、人物について説明しています。鎮については「黄興鎮」をご覧ください。

黄興

プロフィール
出生:1874年10月25日同治13年9月16日)
死去:1916年民国5年)10月31日
出身地: 湖南省長沙府善化県
職業:革命家軍人政治家
死没地: 中華民国 江蘇省上海県
各種表記
繁体字:?興
簡体字:黄?
?音:Huang X?ng
ラテン字:Huang Hsing
和名表記:こう こう
発音転記:ホワン・シン
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黄 興(こう こう、1874年 - 1916年)は、清末民初中国人革命家。革命派の秘密結社・華興会のリーダー[1]孫文とともに「民国革命の双璧」と称され、あるいはまた、孫文・黄興・章炳麟の3人を称して「革命三尊」と呼ぶことがある[1]。本名は「軫(しん)」であったが、革命運動に身を投じてからは「興」を名乗った[1]は克強[1]

なお、「李有慶」、「張守正」、「岡本義一」、「今村長蔵」、「八指将軍」などの別名(偽名)がある。
生涯
生い立ち

湖南省長沙府善化県の名門(地主階級)出身[1]。二男三女の末子として1874年(同治13年)に生まれた[1]。実母は彼が8歳のときに没している[1]。継母の易自如は長沙の女学校の学監を務めた知識人で、黄興らきょうだいの基礎的な教育はこの継母より授けられた[1]。父の黄筱村は、科挙第一段階の合格者である「秀才」となっており、家塾の講師を務めたり、村長を務めたこともあった。

1892年、18歳で最初の妻の廖淡如と結婚した。1893年、秀才に合格した。やがて、湖広総督張之洞武昌に創設した両湖書院に学び、こののち、民族主義を唱道して革命を志すようになった[1]。ただし、当時の彼の日記には詩・詞が多く、政治的な思想信条にふれたものはまったくなかった[1]。また、たいへんな読書家であり、読了した書籍はすべて継母に送っていたという[1]1899年唐才常漢口に挙兵を計画したときに、これに呼応する同志を募ったが失敗し、黄興は湖南から逃亡した[1]
日本留学と華興会

1902年、黄興は湖北省の留学生として渡日し、5月、東京弘文学院師範科に入学した[1]。文章家であった彼は、留学生の雑誌や啓蒙出版にたずさわり、また、日本の教育行政法の翻訳なども手がけた[1]

当時の中国人の多くは、北清事変後も満洲に進駐しつづけるロシア帝国軍に対して反感を募らせており、また、これは日露間でも問題が深刻化していることから、中国人留学生たちは義勇団体・拒俄団(「俄」はロシアの意)を組織した[2][注釈 1]1903年4月29日、東京神田の錦輝館で拒俄大会が開かれ、約500名の中国人留学生にこれに参加した[2]。ただちに義勇軍が組織され、黄興も130名余の志願者の列に加わったが、神田警察署の要望で「拒俄義勇軍」の名は穏やかならずとして「軍国民教育会」の名に改称された[2]。そして、中国人のなかには外国でいたずらに声をあげるよりも、むしろ郷里にもどって革命運動に身を投じるべきであるとする反省がなされて「帰郷実践運動」がおこった[2]。黄興は、この運動のさきがけとして1903年6月、上海武漢を経由して郷里の長沙に帰った[2]。帰郷の途中、母校の両湖書院に立ち寄ってスピーチをおこない、鄒容の著した『革命軍』というパンフレットを配布した[2]。長沙では明徳学堂の教員となって子弟の教育にあたり、革命思想を鼓吹した[2]

1903年11月(12月説もあり)、湖南において宋教仁陳天華劉揆一らと秘密結社の華興会の準備会を開き、1904年3月には華興会が成立して、その総理となった[2][3]。ここでは章炳麟・陳天華・劉揆一・宋教仁などと交わって革命の実行計画を進めた[2]

西太后誕生日である旧暦の10月10日(1904年11月16日)、湖南の文官・武官は奉賀のために長沙の皇殿に集まることとなっていた[2]。華興会の会員は彼らを爆殺して長沙を占領する計画を立てた[2]。蜂起にはまとまった人数が必要であり、武備学堂(士官学校)の学生や新旧各軍の兵士のほかに湖南の任侠団体である哥老会の頭目の馬福益と連絡を取って洞窟のなかで杯をとりあう一方、広西義軍と協力して革命計画実行に邁進した[2][3]。しかし、これは事前に両湖総督の張之洞に探知され、上海に逃亡した[2]。上海には2カ月前後潜伏したが、そこで広西巡撫の王之春暗殺事件の嫌疑をかけられて逮捕される(ただし、数日後に釈放された)という一件があったため、東京へと亡命した[2]。1904年12月もしくは1905年1月のことである[2]。黄興の革命論は、中国の特殊性に基づいており、フランス革命的な首都革命に代わる各省ごとの自立を主張したものだった[3]

1905年2月、馬福益は再び武装蜂起を計画した。黄興と劉揆一は、この報を聞いて密かに帰国し、漢陽小銃43丁と弾薬を調達して馬福益に渡そうとしたが、蜂起は失敗し、やむなく黄興らは商人官吏に変装しながら日本に再び亡命した[2]
中国同盟会と武装蜂起

黄興と孫文の初めての会見は、宮崎滔天の計らいによるもので、1905年7月下旬のことである[1]。孫文は、7月19日ヨーロッパから横浜に到着し、5日ほど逗留してから東京に向かった。孫文との会見は神楽坂の鳳楽園という中華料理店で行われ、革命派大合同の話題はそこで出たものであった[1][3]。8月、黄興の華興会は、孫文一派の興中会と章炳麟一派の光復会とともに麹町の富士見楼において孫中山(孫文)歓迎大会を経て、大同団結を遂げ、8月20日霞ヶ関坂本金弥代議士邸で中国同盟会の成立会が開かれた[1][3]


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