黄禍論(こうかろん、おうかろん[1][2]、独: Gelbe Gefahr、英語: Yellow Peril)とは、19世紀後半から20世紀前半にかけてヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなどの欧米国家において現れた、日本人脅威論。人種差別の一種とされる。 日清戦争(1894年)における日本による中国大陸への軍事的な進出をきっかけに、同様に中国大陸に進出していたロシア・ドイツ・フランスに広がった政策思想である[3]。フランスでは1896年の時点でこの言葉の使用が確認されており、ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世が広めた寓意画『ヨーロッパの諸国民よ、諸君らの最も神聖な宝を守れ
概要
大航海時代以前にモンゴル帝国をはじめとした東方系民族による侵攻に苦しめられた白人は、黄色人種をモンゴロイドと称した。キタイという言葉の直接の意味は、10世紀頃に華北にて遼朝を建国した遊牧民族「契丹」を指すが、ロシア語においては(現在も含めた)「中国」を意味し、北方への対外侵略を常としてきた契丹と同一視することで警戒・畏怖する意味も込められている[7]。そのため、黄色人種は、モスクワ大公国(後のロシア帝国)においては「タタールのくびき」として、また、西ヨーロッパではアンチキリストがアジアから現れると信じられ、共に恐れられてきた。近衛篤麿が同人種同盟論を唱えたように、仮に日中さらにはインドが連携した場合、絶大な人口を誇る勢力となるため、欧米は離間工作を繰り返してきた[8]。
近代の黄禍論で対象とされる民族は、主に中国人・日本人である。このことは特にアメリカ合衆国では1882年に制定された排華移民法や1924年に制定された排日移民法など反日的な立法に顕われ、影響が論じられる。
歴史"The Yellow Terror In All His Glory"(1899年)と題された、黄禍に関する諷刺画。辮髪の中国人が女性を踏みつけにしている。The Yellow Menace (1916年9月)
黄禍というスローガンは、日清戦争前後の1894年から1895年にかけて新聞、パンフレット、雑誌などのマスメディアに流布するようになった[9]。それ以前に、黄禍という言葉こそ使っていないものの、中国人の脅威を説いたミハイル・バクーニンの例が見られる[10]。その後、1900年の義和団の乱勃発まではドイツ帝国国内でさえ「黄禍」という言葉はほとんど無視され、対照的にライン川の西の第三共和政下のフランスでは1896年から1899年の間、言論界で「黄禍」がしばしば論じられた[11]。
ハインツ・ゴルヴィツァーは著書、『黄禍論とは何か』にて、「黄禍」は1895年にライン川の西で発生し、拡散していったと推定している[12]。
まず、イギリスで黄禍論が頻繁にジャーナリズムに登場するようになり、それがロシア、フランスに波及していった[13]。
フランスのアナトール・フランスは、黄禍論の横行する世相の中、1904年に発表した小説『白い試金石(フランス語版)』の中で、ヨーロッパの「白禍」こそが「黄禍」を生み出したのだと主張し、反植民地主義を唱えた[14]。
ロナルド・ノックスは、推理小説を書く際のルールとして1928年に発表したノックスの十戒において「主要人物として中国人を登場させてはならない」を追加したが、その理由として「われわれ西欧人[15]のあいだには、“中国人は頭脳が優秀でありながら、モラルの点で劣る者が多い”との偏見が根強い」と説明している[16]。 「黄禍」という言葉が生まれる以前の黄禍思想は日清戦争の講和条約に際してロシア、ドイツ、フランスの三国が1895年4月23日に行った三国干渉によって広まった[17]。ヒューストン・ステュアート・チェンバレンの人種理論の影響を受けた[18]ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」を説くことによって、それまでの汎スラヴ主義と汎ゲルマン主義の対立によってドイツと敵対していたロシアを極東に釘付けし、更にロシアと同盟関係にあったフランス相手にドイツのヨーロッパにおける立場を有利にすることを画策したのであった[19]。三国干渉と同年の1895年の秋にヴィルヘルム2世は自らが原画を描き、宮廷画家ヘルマン・クナックフース
ドイツ