黄 炳耀
プロフィール
出生: (1946-11-24) 1946年11月24日
死去: (1991-10-15) 1991年10月15日
出身地: イギリス領香港
職業:脚本家、演出家、俳優
各種表記
繁体字:?炳耀
簡体字:黄炳耀
?音:Wong4 Ping2 Yiu6(広東語)
Huang B?ng Yao(普通話)
ラテン字:Wong Ping Yiu
和名表記:バリー・ウォンもしくはウォン・ピンユー
発音転記:ウォン・ピンユー
英語名:Barry Wong (Ping Yiu)
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黄 炳耀(ウォン・ピンユー、バリー・ウォンまたはバリー・ウォン・ピンユー、英語: Barry Wong / Barry Wong Ping Yiu、1946年11月24日 - 1991年10月15日)は、1980年代から1990年代にかけて活躍した香港の脚本家、演出家、俳優である。初期のジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポーの作品において脚本家として非常に重要な役割を果たした。
日本語圏以外では、「バリー・ウォン」という名は一般に黄炳耀を指す。日本語圏でのみ「バリー・ウォン」と呼ばれている香港の映画監督・プロデューサーの王晶(ウォン・ジン)とは全くの別人である。しかし、両者が同時期に同じ香港で活躍したこともあり、日本の映画関係の文献では混同されていることが多く、注意を要する。本項では王晶との混同を防ぐため、「バリー・ウォン」は用いず「ウォン・ピンユー」の表記で統一する。 1971年に香港中文大学の芸術系(芸術学部)を卒業した[1][2]。その後、天主教培聖中学で教鞭をとりながら、麗的電視(現在の亜洲電視)や佳藝電視などで脚本家として活動した。 ジャッキー・チェンが1980年に自らの会社「拳威影片有限公司」を設立した際、最初に制作した映画『ヲ宝闖八関』(中文繁体字:ヲ寶闖八關)の脚本を担当した。その後、ジャッキーのゴールデン・ハーベスト移籍と歩調を合わせるように同社に移籍し、サモ・ハン・キンポーが製作する作品を主に手掛けていた。 製作に関与した作品は、日本でもヒットした『五福星』(1983年)、『大福星』(1985年)、『七福星』(1985年、日本公開1987年)などのいわゆる「福星(ラッキースター)」シリーズや、『霊幻道士』シリーズが挙げられる。 1980年代末に入ると、香港のコメディ映画は人気が落ちてきたため、脚本の仕事を減らすとともに、俳優としても活動するようになった。チョウ・ユンファ主演の『狼 男たちの挽歌・最終章』(1989年)では杜警司役、チャウ・シンチー主演の『超アブない激辛刑事 カリー&ペッパー』(1990年、日本ではビデオスルー)では周長官役を演じた。 1991年10月15日、渡航先のドイツで、脳出血により44歳の若さで亡くなった[3]。 日本語圏以外で「バリー・ウォン」という名前は一般に、ウォン・ピンユーのことを指す。 しかし、日本語圏の映画データの多く(特に2010年以前)は「バリー・ウォン」という名前が王晶(ウォン・ジン)を指すケースがほとんどである[注釈 1]。 ウォン・ジン本人が「バリー・ウォン(Barry Wong)」という別名は日本で勝手につけられたものであると述べたことが、2010年に日本で出版された書籍[4]の中で言及されており、ウォン・ジンが自ら「Barry Wong」と名乗ったことは一度もない。 中国語版Wikipediaや百度百科の「王晶」の項目においても「Barry Wong」という別名の存在は一切確認できず、どのような経緯で「バリー・ウォン」という別名がウォン・ジン本人の知らない間に日本語圏で勝手に定着したのかは、定かではない。 ウォン・ピンユーとウォン・ジンは共に香港中文大学の卒業生であり、1980年代から1990年代に香港映画の世界で活躍していたことから、何らかの手違いで日本の映画関係者が両者を混同した可能性が存在する[注釈 2]。 そのため、日本語のデータベースには、ウォン・ジンとウォン・ピンユーがともに「バリー・ウォン」と表記されており、両者の判別ができない場合がある。この問題を解決するには、中国語のデータベースにおいて「黄炳耀(?炳耀)」と「王晶」を個別に確認する必要がある。
来歴
日本語圏における王晶との混同について
作品一覧
映画(脚本担当)
ヲ寶闖八關 (1980年) (ジャッキー・チェン製作)
老鼠街 (1981年) (ジャッキー・チェン製作)
ユン・ピョウ in ドラ息子カンフー
ピックポケット!