黄泉比良坂(よもつひらさか)は、日本神話において生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。
『古事記』では「黄泉比良坂」、『日本書紀』では「泉津平坂」または「泉平坂」、『出雲国風土記』では「黄泉之坂」などと表記される[1][2]。 『古事記』には黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)の記述が2カ所に登場する[3]。 一つはイザナギとイザナミによる国生みの途中で、イザナミが火の神(カグツチ)を生んで亡くなり黄泉の国へ行ってしまったため、イザナギがイザナミに会うため黄泉国に向かった後のシーンである[3]。イザナミはイザナギに対して、黄泉神と話し合いたいので、しばらく私を見ないでくださいと言った[4]。しかし、イザナギは長く待たされたため火を灯して中を見たところ、イザナミは変わり果てた姿となって全身から雷を生じており、これに恐れおののいたイザナギは逃げ出した[3][4]。イザナミは「私に恥をかかせた」と激怒し、予母都志許売(黄泉醜女、ヨモツシコメ)にイザナギの後を追わせたが[3][4]、イザナギは最後には千引の石(千人もの大勢を動員して引くほどの石)を黄泉比良坂に引いて塞いだ[3][4]。詳細は黄泉を参照。 もう一つがオオクニヌシが妻のスセリビメとともにスサノオから与えられた試練を克服して根の国から脱出するシーンである[3]。詳細は大国主の神話#根の国訪問を参照。 『古事記』では黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)について「出雲国之伊賦夜坂也」としており、島根県松江市東出雲町揖屋には黄泉比良坂の伝承地がある[4]。 『古事記』の黄泉国については、本居宣長の『古事記伝』に始まる地下世界であるとする説と、松村武雄や神野志隆光など水平方向にある別の世界とみる説に大きく分けられるが、これらとはまったく違うイメージとする説もある[4]。 「ひら」は断崖絶壁のような「崖」を意味するという説もある[3]。「ひら」は縁(へり)であり境界を意味するという説や斜面上の坂を意味するという説もある[4]。 坂についても傾斜地としての坂ではなく「境」の意味であるとする説もある[4]。 『日本書紀』の本文では言及がない。ただし、『日本書紀』では本文間で「一書云」の形で異伝が語られている[2]。 神代紀上巻第五段の一書第六では『古事記』とほぼ同様のイザナギとイザナミの応酬が描かれ、イザナミの埋葬のモチーフに関する記述はないものの[5]、「泉津平坂(ヨモツヒラサカ)」の記述がある[6]。 また、神代紀上巻第五段本文と第六段本文の間にある一書第十には「泉平坂」(よもつひらさか)で言い争っていたイザナミとイザナギのもとに菊理姫が現れる記述がある(菊理姫は何かを語ったとなっているが何を語ったかに関する記述はない)[2]。 『日本書紀』神代紀上巻第五段の一書第六をめぐっては、『釈日本紀』など上代の文献では『古事記』や『出雲国風土記』の記述を引いて実在の坂として捉えられた[6]。一方、一条兼良『日本書紀纂疏』によって一書第六の全体は地勢としての坂を意味するが、「泉津平坂」の記述のある条では生死の境界を示す表現であるとして異質性が指摘されるようになった[6]。 『古事記』では黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)について「出雲国之伊賦夜坂也」としており[4]、先述の島根県松江市東出雲町揖屋には1940年(昭和15年)に佐藤忠次郎によって石碑が建立された[7]。同地には「千引きの磐座」と呼ばれる岩がある[7]。近くには、イザナミを祀る揖夜神社もある。2010年の日本映画『瞬 またたき』では、亡くなった恋人に会いたいと願う主人公が訪ねる場所のロケ地として使われた[8]。 江戸時代の1717年(享保2年)に書かれた『雲陽誌』によると、松江市岩坂の小麻加恵利坂にもイザナギが雷神に桃の実を投げた伝説がある[3]。
『古事記』の叙述
内容
研究
『日本書紀』の叙述
内容
研究
ゆかりの場所
脚注^ 山田 純「気絶之際の「泉津平坂」
^ a b c 山田純「 ⇒書紀によると世界は-天孫降臨と歴史叙述-」『文学研究論集(文学・史学・地理学)』第21巻、明治大学大学院、2004年9月30日、127-141頁。
^ a b c d e f g h 森田喜久男. “「ヨモツヒラサカ」を越えた神々
^ a b c d e f g h i 梶川信行、鈴木雅裕「<研究へのいざない>教室で読む古事記神話(六)-追往黄泉国から見畏而逃還まで-
^ 酒井陽「黄泉の国と死者の国 -記紀神話の「黄泉の国」は死者の赴く世界か-
^ a b c 山田 純「気絶之際の「泉津平坂」
^ a b 三石学. “世界遺産熊野花の窟と比婆之山?比婆山学×出雲学×熊野学?”. 庄原市. 2024年4月21日閲覧。
^ ⇒黄泉の国への入り口『瞬 またたき』公式サイト
関連項目
伊賦夜坂
夜見路谷
揖夜神社
塞の神