黄河
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黄河
蘭州における黄河の流れ
中華人民共和国
青海省, 四川省, 甘粛省, 寧夏回族自治区, 内モンゴル自治区, 山西省, 陝西省, 河南省, 山東省

支流
 - 左支流汾河ほか多数の支流あり
 - 右支流?河(中国語版), 渭水ほか多数の支流あり


源流バヤンカラ山脈
 - 所在地玉樹チベット族自治州, 青海省
 - 標高4,800m (15,748ft)
 - 座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度29分31秒 東経96度20分25秒 / 北緯34.49194度 東経96.34028度 / 34.49194; 96.34028
合流地渤海
 - 所在地墾利県, 山東省
 - 標高0m (0ft)
 - 座標北緯37度46分48秒 東経119度15分00秒 / 北緯37.78000度 東経119.25000度 / 37.78000; 119.25000座標: 北緯37度46分48秒 東経119度15分00秒 / 北緯37.78000度 東経119.25000度 / 37.78000; 119.25000

長さ5,464km (3,395mi)
流域753,000 km2 (290,735 sq mi)
流量
 - 平均2,571 m3/s (90,794 cu ft/s)

中国北部を流れる黄河の流路図
黄河流域

黄河(こうが、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Huanghe、ホワンホー)は、中国の北部を流れ、渤海へと注ぐである。全長約5,464キロメートルで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、アジアでは長江とエニセイ川に次いで3位、世界では6番目の長さである。

なお、河という漢字は本来は固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。現在の中国文明の直接の母体である黄河文明を育んだ川であり、中国史上において長江と並び巨大な存在感を持つ川である。
地理
上流青海省を流れる黄河上流臨夏回族自治州で黄河上流の本流に設けられている劉家峡ダム黄河中流の壺口瀑布(中国語版)。山西省吉県と陝西省宜川県の間甘粛省蘭州市黄河下流の山東省済南市に架かる洛口浮橋。遠方の岡は鵲山(中国語版)

黄河流域は地理的にはいくつかに大きく区分できる。チベット高原黄土高原オルドス河套」、華北平原である。黄河は玉樹チベット族自治州の東端に近い青海省バヤンカラ山脈に源流があり、7つの省と2つの自治区を縫って流れる。バヤンカラ山脈に端を発した黄河は、チベット高原の中を大きく蛇行しながら北へと流れ、青海省で三江源国立自然保護区内にあるラムサール条約登録地である扎陵湖(中国語版)[1]、鄂陵湖(中国語版)[2]とゾルゲ湿地(中国語版)西側の黄河首曲湿地一帯[3]を経て、青海省の西部で黄土高原の中に入る。甘粛省に入ると甘粛三峡と呼ばれる劉家峡・塩鍋峡・八盤峡を流れる。劉家峡から八盤峡までは70キロほどしかないが、この3つの峡谷にはそれぞれ劉家峡水力発電所(1969年完成)・塩鍋峡水力発電所(1962年完成)・八盤峡水力発電所(中国語版)(1980年完成)があり、発電および周辺地域の灌漑に利用されている[4]

この地域までは黄河は基本的に深い谷をなしながら流れ、灌漑などに水を利用することも中華人民共和国成立まではほぼ行われてこなかったが、この3つの峡谷を抜けたところで黄河は初めて開けた土地へと流れ込む。蘭州盆地である。蘭州盆地の中心都市である蘭州市は黄河でもっとも上流に位置する大都市であり、黄河の渡河地点から発達した都市で、人口は300万人以上に上り、中国北西部の中心都市である。蘭州から北へと向きを変えた黄河が市を抜けてしばらくするとふたたび切り立った崖に周囲を囲まれ、寧夏に入ると青銅峡と呼ばれる渓谷へと流れ込む。この渓谷にもダムが建設され、寧夏の豊かな農業生産を支えている。

青銅峡を抜けると、黄河は寧夏の広大な盆地へと流れこむ。銀川平原(中国語版)(寧夏平原ともいう)は黄河のほとりに広がる広いオアシスであり、「天下黄河富寧夏」(天下の黄河が寧夏を富ます)という言葉通り、古くからその肥沃さと水の豊富さで知られ、「塞上の江南」とも呼ばれる。西夏王朝もこの銀川市に本拠地を置いた。この地域は回族が比較的多く、寧夏回族自治区を形成している。銀川平原は農業生産力が高いため、近年では人口圧の高まっている寧夏南部の黄土高原地帯から銀川平原への生態移民が行われている[5]。この高い農業生産力を支えているのは豊富な黄河の水である。この地域は黄河からの直接の引水が可能であり、青銅峡灌区(中国語版)と呼ばれる一大灌漑地域となっている。この地域での灌漑用水は、使用後は再び黄河へと戻される。

銀川平原を抜けると、黄河はオルドス高原の中をなおも北上したのち、内モンゴル自治区バヤンノール市で東へと向きを変え、包頭市の先で今度は南へと向きを変える。この地域は「河套」と呼ばれ、屈曲部北端の平原は河套平原と呼ばれている。この河套平原も黄河からの直接引水が可能であり、バヤンノール市に築かれた三盛公ダムから灌漑用水が供給され、河套灌区(中国語版)と呼ばれる一大灌漑地域となっている。この地域ではコムギトウモロコシがおもに栽培される。河套灌区での灌漑用水は黄河へと戻されず、烏梁素海という湖へと流される。呼和浩特市の先、頭道拐で黄河は流路を南へと転ずるが、この頭道拐までが黄河の上流部とされる[6]
中流

蘭州から渭水との合流地点までは、黄河は漢字の「几」の字のような形で大きく屈曲する。この部分は「河套」(オルドス・ループ、Ordos Loop)とも黄河屈曲部とも呼ばれる。この屈曲部の北東端までが上流で、それより南が中流ということになる。頭道拐からは黄河はほぼ真南に向かい、黄土高原のただなかを流れるが、黄河の土砂の供給のかなりの部分はここからもたらされる。黄河そのものの浸食のほか、黄土高原各地を流れる支流や、関中盆地(中国語版)から流入する渭水も流域の黄土を大量に含んでいるためである。この地域では黄河は険しい黄土高原を切り裂いた深い谷の底を流れるため、黄河の水はほぼ使用不可能である。頭道拐のすぐ南には1999年に万家寨ダム(中国語版)が建設され、灌漑や土砂調節などに大きな役割を果たしている。この地域では黄河は西の陝西省と東の山西省との省境をなし、西からは無定河(中国語版)や延河(中国語版)、東からは汾河などが流れこむ。

陝西省の潼関で西から流れてきた渭水と合流してほぼ直角に流路が折れ、今度はまっすぐ東へと向かう。東へと向かった黄河は、三門峡ダム、小浪底ダム(中国語版)といったダムを抜け、洛陽市の北方で山岳地帯を抜けて、広大な華北平原へと流れ込む。ここから始まる黄河の下流域は中原と呼ばれる。この地は黄河文明発祥の地であり、中国文明の中核地域として過去に歴代王朝の都が置かれた。鄭州市の北に位置する花園口(中国語版)までが黄河の中流域に属し、ここからは下流とされる[7]。鄭州市は一部黄河に沿って東西に走る幹線である隴海線と、黄河を越えて南北に走る幹線である京広線の結節点であり、交通の要所として栄えてきた。また、鄭州市に属する鞏義市で、南から流れてきた洛河を合わせる。
下流

黄河は鄭州市を抜け、北宋の都であった開封市付近で東から北東へと向きを変え、あとは河口までほぼ北東に流れる。この部分の黄河は、上流の黄土高原で流れ込んできた大量の黄土が含まれている。黄河が流送する土砂は年間16億トンと言われ、この土砂の堆積によって、下流部は天井川となる。このため、華北平原には黄河にそそぎ込む支流はなく、本流を除いては華北平原は黄河流域とは厳密には言えない。黄河の堤防が分水嶺となるため、華北平原の河川は黄河以北は海河、黄河以南は淮河の流域に属する。しかし一方で、海河・淮河ともに黄河の河道変遷(後述)によって黄河本流となったことがあり、また黄河によって運ばれてきた黄土が華北平原そのものを形成し、平原全域を覆っていることから考えても、華北平原全域が黄河の影響下にある地域であるといえる。また、山東省の黄河以北は位山灌区(中国語版)と呼ばれ、天井川となっている黄河から灌漑用水を引水して農業が営まれている。この位山灌区は面積的には青銅峡・河套両灌区とほぼ同じ面積であるが、気候的に冬小麦と裏作の二毛作が可能であり、黄河の水供給が逼迫する中でもその特性から灌漑区域が拡大している。黄河は山東省西部において大運河と接続するが、この付近にある東平湖はかつて黄河下流では非常に珍しい、黄河に流れ込む水系をなしていた。しかし第二次世界大戦後の河道安定に伴い黄河の河道に土砂が堆積したことで高低差がなくなり、現在では黄河氾濫時の遊水池としての役割を果たすのみとなっている。大運河自体は黄河よりも低く、大運河に沿って走る南水北調導水路の東線も黄河河道をトンネルでくぐって北へと向かう。

大運河に接続したのち、黄河は山東省の省都済南市の北側を通り、渤海湾に注ぐ。上流から流れてくる膨大な量の土砂の堆積により、山東省河口付近には広大なデルタ地帯を形成している。黄河から海へ流入する土砂の量は、年に16億トン[8] から17億トン以上にものぼる[9]。渤海は黄海に属するが、黄海の名は黄河から流れ込む黄土などによって海面が黄色く濁って見えることからつけられた名である。黄河デルタ(中国語版)の湿地群は2013年にラムサール条約登録地となった[10]
水文学的特徴

黄河は上流部で黄土のただなかを流れるが、この黄土はシルトであり、粒子が細かいため浸食されやすい。そのため、黄河には膨大な土砂が流れ込み、黄河という名称のもととなった。

黄河の水文学的特徴として、水が少なく砂が多い、水と砂の分布が不均等、下流域は天井川(川床が岸辺より高くなっている)で洪水災害が頻繁に起こるという点がある[11]。土砂量に関しては年間16億トンにのぼり、世界一の土砂含有量を持つ。この土砂量は第2位のガンジス川(年14.5億トン)と肩を並べ、第3位のアマゾン川が年間9億トンに過ぎないことからしても、ほかの河川からは冠絶している。しかも、黄河の年間水量は468億m3に過ぎず、これはガンジス川(3,710億m3)の8分の1であり、土砂含有率においては世界でもっとも高い大河川である[8]

このため、黄河においては「水一石泥六斗」[12]と呼ばれるほど多くの土砂が含まれており、流量の少なさと土砂そのものの多さによって下流部に堆積し、河道変遷の要因となった。この土砂は流域に建設されたダム群にも堆積し、特に黄河本流に初めて建設された大型ダムである三門峡ダムにおいては、この問題は深刻なものとなった。1960年の完成後急速にダム湖に土砂が沈殿し、1年ほどで潼関にいたる広大な地域に土砂が堆積して、関中盆地の主要部が洪水の危機にさらされたため、2度の改修によって土砂排出機能の改善を余儀なくされたのである。こうした堆積土砂は黄河の全ダムに共通しており、洪水抑制機能がかなり減衰した状態となっている。小浪底ダムにおいては、堆積土砂を押し流すための放水がたびたび行われている[13]。黄河のこの濁りは恒常的なものであり、あてのないことをただひたすら待ち続ける「百年河清を俟つ」という故事成語があるほどである。562年には黄河と済水がともに澄んだため、当時の北斉王朝が年号を「河清」へと変更した[14]

黄河の土砂蓄積は現在も進行中であり、水量低下によって土砂の運搬能力が非常に落ちたためにむしろ加速する傾向がある。黄河下流域においては、大規模な堤防の堤内において水路周辺に再び土砂が蓄積して天井川化し、天井川の中に天井川が存在するといった状態にまでなっている[15]。こうした土砂の流出および蓄積を防ぐためにさまざまな対策が取られている。土砂流出のもっとも大きい黄土高原においては、耕作地に植林して森林を造成し土砂流出を抑制する、いわゆる退耕還林政策が行われている。また、上記の小浪底ダムの大放水はダムの堆積土砂のほか、三門峡ダムや万家寨ダムとも連携して放水することによって下流の河道に堆積した土砂を一気に押し流すことも意図している。
流路変遷と治水各時期における下流部の流路「黄河改道」を参照

黄河下流域は膨大な土砂の堆積によって天井川となっているため、古来よりたびたび氾濫し、大きく流路を変えてきた。それらの元流路は黄河故道と呼ばれている。黄河の治水は歴代王朝の重大な関心事のひとつであった。古代には現代の河道に比べてかなり西寄りを流れており、渤海北部の天津付近に河口があったが、紀元前602年に記録されている最初の河道変遷が起こり、黄河は旧河道と現代の河道のほぼ中間を流れるようになった。春秋戦国時代は沿岸諸国が堤防を建設したが、この堤防は黄河本流から十分な距離をもって建設されており、氾濫しても堤防内にてある程度吸収することが可能であったため、黄河はやや治まっていた。前漢の時代に入ると、紀元前132年濮陽において黄河が決壊した。この決壊はそれまで知られていた黄河以北の河北平野における氾濫ではなく、黄河の南側で決壊して淮河へと流れ込むものであり、当時の経済中心のひとつであった黄河・淮河間の平野(淮北平野)に甚大な被害をもたらした。この決壊は23年後の紀元前109年にふさがれたものの、以後黄河は氾濫を繰り返すようになった。

これを防ぐため、紀元前7年に賈譲(中国語版)が「治河策」を著した。これは黄河の治水策として、上策を河道変更、中策を分流、下策を現河道の堤防のかさ上げとしたもので、この案は賈譲三策として知られ[16]、以後の黄河治水案の基礎となるものだった。しかし、前漢王朝はすでに衰退しており、この案を実行に移す国力はすでに失われていた。

王朝時代の11年にはついに決壊して河道がさらに東へと転じ、現在の河道よりやや北をほぼ現河道と並行するように流れるようになった。この氾濫・決壊は黄河下流域に甚大な被害を与え続けたが、69年から70年にかけて後漢王景による治水工事が行われ、黄河は安定を取り戻した。この王景の治水策は2点からなり、ひとつは華北平野で当時最も低く、なおかつ渤海へ最短距離で到達する河道を選択することで勾配をつけ土砂を押し流しやすくすることと、河北平野への分流を設け黄河の勢いをそぐことを根幹としていた。この案は60年ほど前に提案された賈譲の上策および中策とほぼ一致するものだった。この治水の効果は劇的なもので、これ以降黄河はの時代にいたるまで800年以上ほぼ安定したままで推移し、河道変遷にいたっては北宋時代の1034年にいたるまで起きなかった。この河道安定の理由としては、王景の治水計画が非常に優れたものであったことと、もっとも土砂流出量の多い中流域の黄土高原が、中国王朝の統治能力の減退によって北方の遊牧民がこの地域に進出し牧草地化したことで土砂流出がある程度抑制されたことがあげられる。このため、再び黄土高原に農民が進出し耕地化が著しくなった唐代以降、黄河の洪水は徐々に増加していった。

北宋期に入ると、黄河は再び暴れ川となり、1034年の決壊からはほぼ10年ごとに河道が変転する事態となった。


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