黄 勝(こう しょう、Huang Sheng、1827年 - 1902年8月5日)、字は平甫。香港の学者、ジャーナリスト、企業家、政治家である。 広東省香山県(現在の中山市)出身。1841年、マカオに移住し、モリソン記念学校に入学。同窓生に容?・黄寛・唐廷枢がいる。翌年、清が阿片戦争に敗北した結果、南京条約で香港をイギリスに割譲することになると、モリソン記念学校も香港に移ることになり、黄勝も香港に移住した。 1846年、モリソン記念学校 香港に戻った後、英字紙『チャイナ・メール
生涯
アメリカ留学
香港での活動
黄勝の英華書院での翻訳活動は香港政庁にも知られ、1858年には華人として初めて陪審員に選出され、さらに高等法院の通訳として招かれた。
当時、レッグのもとには洋務派の学者の王韜が難を避けてきており、レッグの『尚書』の英訳に協力していた。黄勝は王韜とともに『火器説略(中国語版)』を翻訳し、西洋の兵器を紹介した。後に『火器説略』は王韜が李鴻章と曽国藩の幕僚の丁日昌に献呈し、高い評価を得た。
丁日昌の推薦で、1864年に黄勝は上海同文館の英語教授となった。同文館の学生を、唐廷枢と協力して香港に留学させたり、福州船政学堂に進学させたりしたが、1867年に辞職して香港に戻り、再び英華書院の印刷所の仕事に就いた。 1858年に香港で初の完全な中国語紙である『中外新報』を伍廷芳と共同で発行した。また1872年には『チャイナ・メール』副編集長の陳靄庭 黄勝は1872年に成立した東華医院
ジャーナリストとして
洋務運動(西法印書局)を創設すると、黄勝は自ら総理各国事務衙門まで届け、西方印書局の基礎をつくった。同年、学童のアメリカ留学事業の正監督陳蘭彬と副監督の容?から第二陣の児童を送ってほしいとの依頼が黄勝のもとに届いた。黄勝は6月に30名の留学生を送り込んだ。その後もアメリカ公使館との交渉や留学事務にあたり、1876年に香港に戻るとき、朝廷から知府の官職を受け取った。
晩年
さらに政界に進出し、1884年から1890年まで定例局の非官守議員(民選議員)、1888年から1890年まで潔浄局の非官守議員を歴任した。