麻生レミ
出生名土生 京子
別名麻生 京子
生誕 (1944-03-05) 1944年3月5日(80歳)
出身地 東京都港区
ジャンルポップス
和製ポップス
グループ・サウンズ
サイケデリック・ロック
ブルースロック
リズム・アンド・ブルース
職業歌手
担当楽器ボーカル、ギター
活動期間1960年 - 不明
レーベル日本コロムビア
ワーナーミュージック・ジャパン
共同作業者ブルーコメッツ
内田裕也とザ・フラワーズ
井上堯之バンド
麻生 レミ(あそう れみ、1944年3月5日 - )は、日本の歌手、ギタリスト。初期の芸名は麻生京子。日本の女性ロック・ボーカリストの草分け的存在で、ソウルフルな歌唱から「和製ジャニス」とも呼ばれた。 1960年頃より、ジャズ喫茶などで演奏していたブルーコメッツにボーカルとして参加するようになる。 1962年、日本コロムビア主催のコンテストにて最優秀賞を受賞し契約。同年、麻生京子の芸名で「ハンガリア・ロック」でソロ・デビューし、主に洋楽ポップスの日本語カヴァー曲をリリースする。 1965年、エレキ・バンドのブルー・ファイアに迎えられ、麻生京子とブルー・ファイアを結成し、ブルーコメッツの前座や、同年秋から放送された「エキサイト・ショー」[注釈 1]でレギュラーをつとめた。 1967年、麻生レミと改名し、内田裕也とザ・フラワーズにボーカリスト兼サイド・ギタリストとして参加。同バンドは1969年に『Challenge!』をリリース。本アルバムは「左足の男」1曲を除き全て洋楽のカヴァーで、麻生はジャニス・ジョプリン、ジェファーソン・エアプレインなどのカヴァーを歌っている。また同バンドは、映画出演[注釈 2]も行った。 同年秋、ザ・フラワーズを脱退し、活動拠点をアメリカに移して[2]、日本でのライヴも行う。 1971年1月、オールジャパン・ロックフェスティバルに村八分、頭脳警察らと出演[3]。4月にはアメリカで麻生レミ(LEMI ASO)&WYNDを結成する。同年7月、来日したグランド・ファンク・レイルロードのオープニング・アクトとして帰国するが、WYNDがビザの関係で入国できなかったので、PYGのメンバーや山内テツらにバックバンドをつとめてもらって、ジョプリンのカヴァーを中心に歌った。 1976年、井上堯之ウォーターバンドをバックに迎えて[4]、ワーナーミュージック・ジャパンより初のソロ・アルバム『オウン・ラインズ』をリリース。ジャズ・シンガーとしての一面も見せた[5]。1978年、陳信輝をギターに迎え、カナダで録音された『ザ・ビギニング』をリリース[注釈 3]。 その後、アメリカでライヴを中心に活動した。 2016年の時点では、カナダ在住。
来歴
ディスコグラフィ
アルバム
オウン・ラインズ (1976年)
ザ・ビギニング (1978年)
カルトGSコレクション 日活編~麻生レミ/フラワーズ (2006年) ※オムニバス・アルバム
ハンガリア・ロック コロムビア・イヤーズ コンプリート・コレクション (2014年) ※コンピレーション・アルバム
シングル
麻生京子
ハンガリア・ロック (1962年) (オリジナル「Franz List Twist」)
カッコいい彼氏 (1962年) (オリジナル「Gonna Git That a Man」)
恋をしましょう (1962年) (オリジナル「Let's Talk About Love」)
くちびるに太陽 (1963年) (オリジナル「The Life of the Party」)
太陽よりも彼 (1963年) (オリジナル「Blow Out The Sun」)
ミスター・ベース・マン (1963年) (オリジナル「Mr. Bass Man」)
あたしのベイビー (1963年)(オリジナル「Be My Baby」)
麻生京子とブルー・ファイア
ダイナマイト(1965年) ※ソノシート、コンピレーション [注釈 4]
麻生レミ
美しく燃えながら (1978年)(原題「One Thing That Beats Failin'」)
脚注[脚注の使い方]
出典^ discogs.com[1]
^ 内田裕也HP[2]