logo麦島城
(熊本県)
出土した麦島城小天守台跡
別名八代城、織豊期八代城
城郭構造輪郭式平城
天守構造不明、連結式(非現存)
築城主小西行長
築城年1588年頃
主な城主加藤氏
廃城年1619年
遺構天守台、小天守、本丸石垣、本丸御殿、堀等、城郭のほぼ全てが地下に残されている。
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度29分53.5秒 東経130度35分42.7秒 / 北緯32.498194度 東経130.595194度 / 32.498194; 130.595194
麦島城(むぎしまじょう)は、熊本県八代市国郡にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城。2014年(平成26年)3月18日、本城跡と古麓城跡・八代城跡とを併せ、「八代城跡群」の名称で国の史跡に指定された[1][2]。 1588年(天正16年)、肥後に入部した小西行長は、重臣小西行重に命じて球磨川の北岸に新しい八代城を築城させた。この城が現在麦島城跡と呼ばれている城である。なお、当時はまだ前川の開削が行われておらず、麦島城の北側は大きな入江となっており、中世以来の貿易港であり豊臣秀吉の直轄港であった徳淵津
概要
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは城代小西行景が守る宇土城と連携し、来襲した加藤清正の軍と戦ったが、西軍が本戦で敗北したため、キリスト教徒であった城代末郷は城内の者達を救うために麦島城を開城し、本人は薩摩に移った。麦島城は戦後加藤氏の支城となり、1612年(慶長17年)城代加藤正方を派遣して支配した。加藤氏は肥後加藤領における城郭網再編成の一環として麦島城を改修し、規模の拡大を図った。その規模は、近年の本発掘調査によって、本丸東西部分で130m、本丸西側の二ノ丸を含めると東西400m、本丸西側に面する外堀の幅は50mを測る。
その後、大坂夏の陣後の元和の一国一城令に際しても、加藤領は本城・熊本城と支城八代城(現在の麦島城)の二城体制が特別に許された。
1619年(元和5年)、大地震によって城は倒壊したと伝えられている。しかし、麦島城時代に認められた一国二城体制は継続され、1621年(元和8年)に麦島城北側の松江の地に新しい八代城(別名松江城、現在の八代城跡)が竣工した。したがって、麦島城時代に一国二城体制が認められていなければ、現在の八代城跡は存在しなかった可能性がある。 平成に入って開発に伴う麦島城跡の本発掘調査が行われ、小西行長時代の本丸石垣、小天守が発掘された。本丸石垣の発掘作業 特に小西時代の小天守においては金箔鯱瓦、文禄・慶長の役の際に「隆慶二年 仲秋造」銘滴水瓦、同じく朝鮮半島から持ち帰ってきた「萬暦十二年」銘滴水瓦などが出土した。近年、立命館大学教授の高正龍と織豊期城郭研究会の山内淳司の調査によって「隆慶二年 仲秋造」銘滴水瓦の同范資料が釜山博物館に収蔵されていることが分かり、釜山の東莱倭城
麦島城の発掘
先の高正龍と山内淳司の調査において、長崎県対馬市の金石城跡で見つかった滴水瓦も文禄の役の際に釜山から持ち帰ったものであったことが確認された。「隆慶二年 仲秋造」銘滴水瓦(右)と「萬暦十二年」銘滴水瓦(左)
なお、加藤時代の本丸石垣等も出土したが、八代城(松江城跡、現在の八代城跡)築城に際して、大半の石材が持ち出されていた。
また、二ノ丸東側に面する外堀から地震で倒壊したと考えられている平櫓の部材が組まれた状態で出土した。これは、日本考古学史上において奈良県桜井市の山田寺跡東回廊の一部が出土したとき以来の例である。