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La Peau de chagrin
アドリアン・モロー(フランス語版)による挿絵(1831年版)
著者オノレ・ド・バルザック
発行日1831年
フランス
言語フランス語

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『?皮』あるいは『あら皮』(フランス語: La Peau de chagrin)は、フランスの作家オノレ・ド・バルザック1831年に発表した長編小説パリ科学アカデミー会員のフェリックス・サヴァリーへ捧げた序文、本編及びエピローグから成る。
成立の土台初出の新聞、La Caricature

『梟党』『結婚の生理学』の二つの長編小説で文壇に登場したバルザックは、雌伏十年の鬱憤さと味気なさを一挙に吹きとばすかのように、奔馬の勢いで書き出した。1831年32歳のバルザックは、異色ある新進作家でもあり、多産で引く手あまたのジャーナリストでもあった。雑誌や新聞の注文を片っぱしから引き受けて遮二無二書きとばしたが、題目は文芸はもとより、政治宗教科学、社会の各般にわたり、形式は論文、随筆、小品、新刊紹介、月評の別を問わなかった。いっぽう貴族上流市民階級サロンのもしきりに出入りするようになり、有名無名の文学者たちとも億劫がらずに接触し、そしてオペラ座芝居小屋へもまめに足をはこんだ。

しかしこの間にも、一つの小説のテーマが脳裏をかすめ、いつか知らない間に成熟していった。彼がいつも座右にそなえて不時の着想を書きとめるのに使ったメモ帳が現に残っているが、そのなかに次の一句がある。「人生を象徴する一枚の皮の物語。オリエント古譚――長編『?皮』はこの簡単な文句をそもそもの発端として着想され、その内容や形式に次々と複雑な肉づけを与えられたのちに、今日見るような首尾一貫の作品となったのである。
成立過程ヌムールの川べり

この年1831年の3月から5月にかけてバルザックは、パリ南方80キロのヌムールにほど近い小さな村に隠れて、専心この主題と取り組んだ。村はフォンテーヌブローの森やバルビゾンにもそう遠くなく、画家や釣り道楽の人たちがパリからよく出かける景勝の地で、そこのラ・ブーロニエール荘というささやかな貸し別荘に、彼の愛人ベルニー夫人が夫と別れて住んでいたのである。『?皮』はすでに前年から寄稿され、一部分雑誌にも発表されていたが、かような次第でその大部分は当時54歳の愛人のかたわらで完成し、この年八月二巻物として出版された。
評判ジョルジュ・サンド

バルザックは息つく間もなく広告宣伝の工作にとりかかった。文壇の友人たちのあいだを如才なく頼みまわって、いろんな新聞雑誌で提燈持ちをしてもらった。それのみか自分でも匿名で新刊紹介を、最大級の自画自賛でやってのけた。こうして巧みな宣伝工作も一役買ったわけだが、『?皮』はしかし何よりもそのすぐれた出来映えによって世に迎えられた。初版750部はわずか数日で売り切れ、翌月の九月には早くも再版1200部が出た。バルザックとごく親しい人の間にも初版を買いそこねた人があり、図書回読会ではたちまちこれが引っぱり凧になった。ジョルジュ・サンドとその愛人のジュール・サンドーは、この小説の雑誌掲載分を読み出したら手から離すができなくなったと、わざわざ作者にあてて書いている。
挿絵本として

『?皮』の作者生前の版は1845年第七版 (『人間喜劇』初版第十四巻)が最後であるが、1838年に出た第五版は銅板印刷の図版百個入りの挿絵本で、ロマンチック時代のもっとも美しい挿絵本の一つに数えられる。従来このような図版は本文とは別の紙にしか印刷できなかったが、この本はかようなエッチングと本文が同一ページに印刷された最初の本として知られ、挿絵そのものの美しさと相俟ってその点からも好事家に珍重される版になっている。
ゲーテの『?皮』評晩年のゲーテ

三年前の無名文士は『?皮』の成功によって一躍女性読者の寵児となり、ひと山あてるつもりの出版業者は争って彼の原稿を求めるようになった。こうしてフランス国内の評判と人気は高まる一方だったが、国外でもこれがゲーテの目に触れたことを書きそえておく。すなわちこの年の十月と十一月の手記や書簡、歿年にあたる翌1832年2月のエッカーマンとの対話などにその読後感がうかがえるのだが、かように二年にまたがって言及されていることから推しても、『?皮』の印象がよほど深かったことがわかる。社会病理のなかば諷刺的な解剖書ともいえるこの長編小説は、幻想と写実の巧みな総合が見られる点で大ゲーテの賞賛を買い、「きわめて新しい種類のすぐれた作品」という評を得た。二、三手法上の難点はともかくとして、並々ならぬ天分は見そこなうわけにはいかないというのである。
学術性「?皮」とはロバ皮のことである

この作品を献呈されたフェリックス・サヴァリー (1797 ~ 1841)はパリ理工大学の教授である。この小説には工学機械に関する叙述がたくさんあるが、作者はおそらくこれについてこの人に種々教えを乞うたのであろう。?皮の裏にしるされた運命の言葉を、骨董店の老主人はサンスクリット語だといってるが、もちろんそれはアラビア語の誤りである。アラビア文字のこの銘文は初版から第四版までの刊本にはなく、前にもちょっと触れた挿絵本すなわち第五版から取り入れられて今日に至っている。
ハンマー・プルクシュタルと

1835年バルザックはハンスカ夫人を訪ねてヴィーンに滞在していたが、そのときハンマー・プルクシュタル (1774 ~ 1856)という人が作者から頼まれて、三角形に印刷されたフランス語の銘文をアラビア語に翻訳したのである。この人はオーストリア外交官であり、ヨーロッパ有数のオリエント学者でもあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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