麟_(織田信長の花押)
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このページ名「麟 (織田信長の花押)」は暫定的なものです。
代案としては織田信長「麟」字型花押、織田信長の花押などがあります。
議論はWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/麟 (織田信長の花押) 20181211を参照してください。(2018年11月)
織田信長の「麟」字型花押織田信長像(長興寺蔵)

織田信長は、永禄8年(1565年9月頃から文書に麟(りん)の字をかたどった花押を使用するようになった[1]

この花押は伝説上の生物である「麒麟」を意味するとされるが、麒麟は正しい政治が行われている世にしか現れない生物であると中世日本では信じられていた[1][2]。そして、この「麟」字型花押が使われはじめるきっかけとなったのは、室町幕府将軍足利義輝の非業の死(永禄の政変)であった[1][2]。このような背景から、この花押は平和社会の実現を目指した信長の理想を示すものだと解釈されている[1][2]

上の解釈は定説となり[3][4]、織田信長に関する多くの論文で注目されてきた[5]。しかし、同説には様々な異論も存在し、例えば、「麟」の字ではなく「信長」の字を表しているとする説[3]、あるいは足利様の花押[注 1]との連続性があるとする説[7]、平和社会実現の主体を信長自身ではなく足利義昭とみる説[8]などがある。
使用の経緯信長が最初に用いた伝統的な足利様の花押。「信長」の字を倒置した形。天文21年以降に使用。

花押は、文書において自署の代用として使われる特殊な形状の記号・符号である[9]。織田信長は自らの花押の形状をたびたび変更したことで有名であり[10]、細かく分類すれば10種類以上の、大別すれば3種類の花押を使用した[4]

すなわち、初期に使用したものは伝統的な足利様の花押[注 1]であり、この形式は父の織田信秀も使用していた[10]。次に天文21年(1552年)から使用した花押は実名「信長」の字を裏返したものである[10][11]。このときの花押変更の背景には、盗用や偽造を防ぐという実際的な目的があったと考えられている[10]

最後の3種類目の花押が「麟」の字の花押であるが[11]2012年時点で判明している限りでは、「麟」字型花押が使われた最初の史料は、永禄8年9月の信長の発給文書である[1]。そして、同年の花押の一新は、盗用・偽造の防止といった従前の目的からではなく、政治理念の表明というまったく異なった理由によって行われたものであった[2]。後述する通り、この「麟」の花押に込められた理念とは、平和社会の実現という信長の理想であると解釈されている[2]「天下布武」の印章。永禄10年以降に「麟」の花押とともに使用。

やがて美濃攻略を達成した信長は、永禄10年(1567年)11月に「天下布武」の印章を使い始めた[8]。「麟」字型の花押は「天下布武」印とともに使い続けられたが、同花押は相対的に重要性の高い文書に限定して使われるようになった[8]。特に、信長が天正4年(1576年)に本拠を安土城へ移して以降は、発給文書のほとんどに「天下布武」の印章が捺された一方で、花押の使用は他の戦国大名公家に宛てた特別な文書のみに限られた[8]
解釈
定説(佐藤進一の説)竹中重治の花押。「千年おゝとり」の意で、麒麟と並ぶ霊獣の「鳳凰」を表す。

もともと、この花押が何の文字にあたるのかは研究者の間でも不明であり、日本中世史研究者の佐藤進一も、初めて見たときはこの花押を解読することはできなかったという[2]。しかし佐藤は、勝海舟(勝麟太郎)の花押「麟」と比較することで、この信長の花押も「麟」の字をもとにしたものである可能性に気づいた[2]

勝海舟の花押「麟」は、「麟」の字の草書体の下半分が左右に開いたものである[2]。佐藤によれば、信長の花押「麟」は勝海舟の花押の形と比べてより記号化がなされたものであり、「鹿」の草書体での書き出しの部分と「米」の部分を省いている[2]

「麟」とは中国の伝説上の生物「麒麟」のうち雌を意味する字であるが、中世日本においても、「麒麟」は理想的な政治が行われている社会のみに出現するものだと信じられていた[2]。そのため、信長が「麟」の花押を使用したことは、「至治の世、平和の代への願望」の表明であったと佐藤は解釈する[12]


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