麒麟児將能
[Wikipedia|▼Menu]

大麒麟 將能

基礎情報
四股名堤 將能 → 麒麟兒 將能 → 麒麟児 將能 → 大麒麟 將能
本名堤 隆能
愛称コンちゃん
[1]
生年月日1942年6月20日
没年月日 (2010-08-04) 2010年8月4日(68歳没)
出身佐賀県佐賀郡東川副村(のち諸富町、現・佐賀市
身長181cm
体重140kg
BMI42.73
所属部屋二所ノ関部屋
得意技右四つ、寄り、吊り、うっちゃり
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴710勝507敗69休(100場所)
幕内戦歴473勝337敗49休(58場所)
優勝十両優勝1回
三段目優勝1回
殊勲賞5回
技能賞4回
データ
初土俵1958年5月場所
入幕1963年9月場所
引退1974年11月場所
引退後年寄押尾川
趣味読書ジョギング囲碁
備考
金星3個(柏戸2個、佐田の山1個)
2012年12月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

大麒麟 將能(だいきりん たかよし、1942年6月20日 - 2010年8月4日) は、佐賀県佐賀郡東川副村(のち諸富町、現・佐賀市)出身で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。本名は堤 隆能(つつみ たかよし)。最高位は東大関。現役時代の体格は181cm、140kg。得意手は右四つ、寄り、吊り、うっちゃり[2]
来歴

中学生の頃は柔道の選手として活躍。また生徒会長を務めるなど人望もあり、体力のみならず学力にも秀で、将来は防衛大学校を目指していたといわれ、後に理論、頭脳明晰として知られる人物の片鱗を見せていた[2]。その素質に目をつけた二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花)に勧誘され1958年(昭和33年)5月場所本名のまま初土俵[2]。後に「麒麟児」と改名(新十両1962年(昭和37年)7月場所のみ「麒麟兒」、翌9月場所「麒麟児」に改名)。

幕下に上がった頃に寄生虫に寄生されて体調を崩し、恥ずかしくて人に言えない中で虫下しを飲んで自己流で治療したが4ヶ月間に渡って捗々しい効果が得られなかった。1961年3月場所前、ついに恥を忍んで大阪市内にある病院に向かい、回虫ではなく虫下しの無効なサナダムシに寄生されていることが判明。専用の治療薬を貰って有効な治療を開始した。3月場所は負け越して4場所連続の負け越しとなったが、場所中に10mものサナダムシを排出して治療に成功した[3]

1963年(昭和38年)9月場所新入幕[2]。しかしその場所9日目の朝稽古で左脚を負傷(左脛骨上端骨折・左膝十字靱帯断裂)し休場、一時は幕下まで陥落。1965年(昭和40年)7月場所再入幕。兄弟子の横綱大鵬があれほど苦戦させられた横綱・柏戸に強く、初顔の1966年(昭和41年)5月場所(地位は前頭5枚目)5日目、柏戸を土俵際で見事にうっちゃりで勝ち注目を浴びた。重さと柔軟性を活かした取り口で、前さばきもうまく柏戸に何度も苦杯を舐めさせた(対戦成績は大麒麟(麒麟児)の9勝8敗)[2]。その後三役で大勝ちし大関とりといわれる場所を何度も迎えたが、大事な所で弱く何度も失敗。1968年(昭和43年)3月場所では、小結で14日目を終えて12勝2敗と大関・豊山と前頭8枚目・若浪と並んでトップであったが千秋楽で関脇・前の山に敗れて優勝のチャンスを逸してしまう。しかし4大関(玉乃島北の富士琴櫻、豊山)全員を破り12勝3敗の成績を上げ、4回目の殊勲賞を獲得した。

1969年(昭和44年)1月場所からは11場所連続で三役(小結・5場所、関脇・6場所)に座り続け、1970年(昭和45年)5月場所より「大麒麟」と改名。この場所関脇で9勝6敗、7月場所は14日目まで横綱・北の富士と関脇・前乃山と並びトップであったが、またも千秋楽で前乃山に敗れ優勝争いから脱落、12勝3敗で終えた。大関獲りの場所となった秋場所では11日目までに10勝を挙げ、12日目の貴ノ花戦ではあと1勝で大関の座を手にできる大麒麟に対してあと1勝で新小結の座を守れる貴ノ花という状況が出来上がっていた。立ち合い大麒麟がモロ差しに成功し、元気な貴ノ花を土俵中央から西へ高々と吊り上げた。この瞬間、悲願の大関昇進が確定[4]。13日目まで12勝1敗と全勝の横綱・玉の海を追うも大関・清國と琴櫻に連敗し、結局12勝3敗で終えたが、ようやく大関の座を射止めた[2]

大関昇進後の前半10場所は7場所が二桁勝利という安定した成績を挙げていたが、初日に敗れることが多かった(大関昇進後、初日のみの戦績は8勝16敗1休)。1971年7月場所11日目の琴櫻にあっけなく敗れた一番は「八百長ではないか」と非難が集中、「ファンの疑惑を招く相撲内容であった」として協会が両力士に厳重注意を発したが、「負け方によっていちいち呼ばれるのは心外だ。ぎこちなく負けることだってあるさ。こっちだって優勝がかかっていたんだ」とこの警告に対し不満の意を述べた[5]。1971年11月場所前に福岡拘置所を訪れ拘留中であった伊豆組幹部と面会したことで協会から警告を受けた[6]1972年(昭和47年)7月場所に右腕を骨折してからは成績が降下し1973年(昭和48年)3月場所には3勝12敗と大きく負け越した。結局大関時代の最高成績は11勝4敗[7]、素質は横綱を充分に期待できる程のものだったが優勝もなく果たせなかった。1974年(昭和49年)11月場所、初日前頭筆頭・旭國、2日目小結・魁傑と連敗、3日目前頭2枚目・先代栃東に勝ったものの、その翌日に引退を表明[2]年寄押尾川を襲名した。

師匠没後の1975年(昭和50年)9月、内弟子16名を連れて谷中瑞輪寺に立て籠もり分家独立を申し出た。二所ノ関の後継者の座を巡っては、かねてから当時まだ現役で、同年7月場所に初優勝を果たした関脇の金剛と相続を争っていたが、金剛が師匠の次女と婚約し事実上勝利した。独立はこれを受けてのものだったが周囲の反対に遭い紛糾。「二所ノ関騒動」、「押尾川の乱」と呼ばれる事態に発展する。また、この騒動には天龍源一郎も巻き込まれていた(結果的に天龍は廃業し、プロレスラーへ転身した)[8]

最終的には二所ノ関一門の重鎮であった11代花籠調停により、16名中6名(青葉城(のち不知火)ほか)を連れて行くことが認められ押尾川部屋を開設した[2][8]。後に、益荒雄大至恵那櫻佐賀昇日立龍騏乃嵐などの幕内力士やプロレスラーに転身した玉麒麟=田上明を育てた[8]。しかし弟子の益荒雄が引退後、強引に分家独立(阿武松部屋)しようとした際には、自身が破門している。なお、玉麒麟の突然の廃業もやはり確執(新十両昇進の際の祝儀に関する金銭問題等)によるもので、実質的には破門の形で廃業させている。

日本相撲協会では騒動の影響もあってかなかなか要職に就けなかったが、2004年(平成16年)から1期2年間、理事審判部長を務めた。自らの停年(定年。以下同)まではまだ余裕があったが後継者を指名することなく部屋を畳むことを決め、2005年(平成17年)4月1日付で尾車部屋若麒麟(のちに大麻取締法違反の罪で起訴され、プロレスラーへ転身)を含む全力士を移籍させ押尾川部屋は消滅した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef