人口11,986人、面積643.53km²、人口密度18.6人/km²。(2024年1月1日、推計人口)
以下の2町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のまま変更されていない。 承和10年(843年)、隣接する美濃郡から鹿足・.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}能濃(のの)の2郷を分離して成立した。郡名の由来としては、かつてこの地で暴れていた八角八足の怪鹿を江熊太郎という勇者が退治したことに因むと言われる。万葉仮名では「加乃阿之(かのあし)」と訓じられ、この地を指す別名の『吉賀(よしか)』も広く用いられた。この『吉賀』は、六日市町と柿木村が合併してできた新自治体の名前にも採用されている。 知行村数村名
津和野町(つわのちょう)
吉賀町(よしかちょう)
郡域
歴史
近世以降の沿革
「旧高旧領取調帳データベース」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り[1]。幕府領は大森代官所が管轄。《 》は同データベースでは左記の村に含まれていると見られる。(105村)
幕府領幕府領5村日原村、中木屋村、石ヶ谷村、十王堂村、畑迫村
藩領石見津和野藩100村相撲ヶ原村、須川村、枕瀬村、木ノ口村、野口村、脇本村、野地村、添谷村、小瀬村、青原村、大木村、柳村、宿谷村、商人村[2]、程彼村、小直村、野広村、《越原村、倉地村、木ノ頃村》、直地村、和田村、千原村、高野村、野中村、《高野村》、小野村[3]、小山村[3]、下組村[3]、中組村[3]、畑村(現・津和野町中曽野)[3]、吹野村[3]、長野村、《平野村、下山村、福谷村》、奥ヶ野村、《三歩市村》、市尾村、横瀬村、《鳥井村》、喜時雨村[4]、中原村[4]、虹ヶ谷村[4]、山入村[4]、高田村、《神田村、白井村、牧ヶ野村》、徳次村、《田代村》、鷲原村、中座村、森村、寺田村、《後田村》、笹山村、福川村、椛谷村、柿木村、《大井谷村》、左鐙村、横道村、奥木部谷村[5]、下木部谷村[5]、上高尻村[6]、下高尻村[6]、大野原村、田丸村、《桟敷村、七村》、七日市村、抜舞村、蓼野村、朝倉村、注連川村、立戸村、広石村、沢田村、六日市村、立河内村、九郎原村、樋口村、星坂村、《河津村》、町田村[7]、下須村、有飯村、蔵木村、田野原村、金山谷村、初見村、西谷村、三渡村、二俣村、麓耕村、月和田村、白須山村、畑村(現・津和野町池村)、畑村(現・吉賀町)
明治2年8月2日(1869年9月7日) - 幕府領が大森県の管轄となる。
明治3年1月9日(1870年2月9日) - 大森県の管轄地域が浜田県の管轄となる。
明治4年6月25日(1871年8月11日) - 津和野藩が廃藩。全域が浜田県の管轄となる。
明治5年(1872年) - 3ヶ所存在した畑村のうち2村が堤田村(現・津和野町池村)、幸地村(現・吉賀町)にそれぞれ改称。