鹿苑寺
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「金閣寺」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「金閣寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

この項目では、京都市にある寺院について説明しています。岐阜県美濃市にある同名寺院については「鹿苑寺 (美濃市)」をご覧ください。

鹿苑寺
舎利殿(金閣)
所在地京都府京都市北区金閣寺町1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度2分21.85秒 東経135度43分45.71秒 / 北緯35.0394028度 東経135.7293639度 / 35.0394028; 135.7293639 (鹿苑寺)座標: 北緯35度2分21.85秒 東経135度43分45.71秒 / 北緯35.0394028度 東経135.7293639度 / 35.0394028; 135.7293639 (鹿苑寺)
山号北山(ほくざん)
宗派臨済宗相国寺派
寺格相国寺境外塔頭
本尊聖観音(方丈本尊)
創建年応永4年(1397年
開山夢窓疎石(勧請)
開基足利義満
正式名北山鹿苑禪寺
別称金閣寺
北山殿
北山第
札所等神仏霊場巡拝の道第93番(京都第13番)
文化財絹本著色足利義満像、木造不動明王立像、大書院障壁画ほか(重要文化財
庭園(国の特別史跡特別名勝
世界遺産
公式サイト臨済宗相国寺派 金閣寺
法人番号3130005001267
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鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派寺院である[1]大本山相国寺の境外塔頭山号は北山(ほくざん)。本尊聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)とも呼ばれている[2]。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である[3][4]

寺名は開基室町幕府第3代将軍足利義満法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた[5]。寺紋は五七桐[6]、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。

また1994年平成6年)にはユネスコ世界遺産文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
歴史

鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代元仁元年(1225年)に藤原公経西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である[7]。またこれ以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。西園寺家は代々朝廷鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。

応永4年(1397年)、金閣寺の開祖である足利義満河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年(1394年)に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。

応永6年(1399年)には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される[8]相国寺七重大塔も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる[9]

応永10年(1403年)、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると[9]、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる[10][11][12]

応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。

応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた[13]

当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺建仁寺に寄贈された[14]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。

足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた[15][16]

足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。


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