鹿島精一
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鹿島精一

鹿島 精一(かじま せいいち、1875年(明治8年)7月1日[1][2][3] - 1947年昭和22年)2月6日[1][2])は、大正から昭和時代前期の土木工学者実業家政治家鹿島組社長、土木学会会長、貴族院勅選議員
経歴

盛岡藩士葛西晴寧、すえの長男として岩手県岩手郡上田村(現在の盛岡市上田)に生まれる[3]。翌年父晴寧が死去し、家族は仁王村字下台(現在の盛岡市梨木町)母の実家出渕家に引き取られる[3]1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、逓信省鉄道作業局に出仕する[4]。同年、鹿島組組長の鹿島岩蔵の長女と結婚し、養嗣子となり、鹿島組副組長に就任する[4]1912年(明治45年)養父の岩蔵の死去により、37歳にして3代目鹿島組組長となり、1930年(昭和5年)鹿島組を株式会社に改組し、初代社長に就任した[4]1938年(昭和13年)会長となる[4][2]。この間、東京商工会議所議員、東京土木建築業組合会長などを歴任した[2]

事業では特に鉄道および水力開発に尽力し、なかでも1918年(大正7年)に着工し、1933年(昭和8年)に貫通した「世紀の難工事」と称された東海道線丹那トンネルの工事では、菅原恒覧が社長を務める鉄道工業とともに請け負い、これを完成させた[4]。当時、鹿島組にとって社運を賭けた事業であり、2社のトップは同郷で大学の同級生でもあった[4]

昭和に入ってからは、建設業界の社会的活動に関与し、1928年(昭和3年)日本土木請負業者連合会会長に就任すると、入札や契約保証金制度の撤廃、片務契約の是正、営業税の改廃、請負業者の衆議院被選挙権の獲得などに尽力した[4]1940年(昭和15年)土木工業協会理事長(現在の日本土木工業協会[4]、戦後は1946年(昭和21年)土木学会第34代会長を務めた[2]。同年8月21日、貴族院議員に勅選され[5]同和会に所属し在任中に死去した[6][7]
栄典

1943年(昭和18年) - 緑綬褒章[2]

親族

養嗣子:
鹿島守之助(鹿島建設会長、参議院議員北海道開発庁長官

長女:鹿島卯女(守之助の妻、鹿島建設名誉会長)

系譜

            00中曽根康弘00   000美智子000
   
                    
   
        小林儀一郎 蔦子   美恵子
   
                   

            渥美健夫   渥美直紀
   
                  
   
    永富敏夫 (永富)鹿島守之助  伊都子   渥美雅也
     
                 

              石川六郎 
   
    (葛西)鹿島精一           

         卯女  ヨシ子  


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