かじま もりのすけ
鹿島 守之助
生誕永富 守之助
(ながとみ もりのすけ)
(1896-02-02) 1896年2月2日
日本 兵庫県揖保郡半田村新在家(現たつの市揖保川町新在家)
死没 (1975-12-03) 1975年12月3日(79歳没)
墓地曹洞宗吉祥寺(文京区本駒込)
国籍 日本
別名鹿嶋 守之助
出身校東京帝国大学法学部政治学科
職業外交官、実業家、政治家
著名な実績外交史研究
鹿島建設の発展
パン・アジアの提唱
影響を受けたものクーデンホーフ=カレルギー伯爵の世界平和思想
肩書き鹿島建設会長
任期1957年–1975年
前任者鹿島精一
後任者鹿島卯女
政党自由党、自由民主党
配偶者鹿島卯女
子供伊都子
鹿島 守之助(鹿嶋 守之助[8]、かじま もりのすけ、明治29年(1896年)2月2日 - 昭和50年(1975年)12月3日)は、日本の外交官、実業家、政治家、参議院議員(3期)。位階は正三位。北海道開発庁長官(第14代)、外交史研究家。文化功労者。法学博士。鹿島建設会長。鹿島建設「中興の祖」[9]。戦前よりアジアの地域統合「パン・アジア」(汎アジア)を提唱し、生涯にわたりその思想のもとに行動する。旧姓永富(ながとみ)。
来歴・人物、母・くわんの四男として生まれた。
父・敏夫について、鹿島守之助の『私の履歴書』によれば、「明治8年(1875年)父敏夫が、わずか12歳の年少の身で家督をついだ時には、さしも広大を誇った永富家の所有田地も、30町歩余に激減し、倉に残されていた100余振りの刀剣も、そのほとんど目ぬきの金が無残に切りとられて、売り払われていた。詩人でもあり篤農家でもある父敏夫は、撫松(ぶしょう)山人と号して文人墨客と交わり、関西詩壇に名声を得たが、名利や世俗のことには超然として孤高を愛し、それを誇りとした人物」という。
永富家は浄土真宗本願寺派亀山本徳寺と江戸時代から縁を築き、守之助も本徳寺の信徒総代を長く務めた[10]。
龍野中学、京都の第三高等学校、東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省に入省する。外務省同期に阪本瑞男、加瀬俊一などがいる。
1922年(大正11年)、外交官としてヨーロッパに赴く船上にて鹿島組社長鹿島精一、鹿島組重役永淵と出会う。鹿島精一は、永富守之助の人柄に惚れ込み、以降猛烈に永富守之助獲得に動く。はじめは養子だということで相手にしなかった。ある日永淵がたずねて来たとき「私は役人を辞めて政治家になりたい」と言ったら「そりゃけっこうですな。鹿島組の事業には、政治が必要ですよ」と言う。とうとう決心して婚約が成立した。[11]
1927年(昭和2年)2月、鹿島精一長女卯女と結婚し、鹿島姓となる。以降、鹿島組(当時)を率いる指導者となる。
ドイツ駐在中にパン・ヨーロッパ連合の指導者リヒャルト N. 栄次郎・フォン・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と親交を開始する。クーデンホーフ=カレルギー伯爵は自分がヨーロッパをまとめてゆくから君はアジアで、この2つの地域は協力して真の世界平和を実現しようではないかという壮大な話を鹿島に聞かせ、それを聞かされた鹿島は大感激したようである[12]。
鹿島は1930年1月に外務省を退官して翌月に立候補した衆院選挙、1942年第二次世界大戦下の翼賛選挙、ともに落選。落選後間もなく大政翼賛会調査局長として翼賛体制に加担。鹿島は戦後、大政翼賛会調査局長を「断り切れずに引き受けた」、「もとより私は平和主義者であり、大東亜戦争についてはその前に、極力これを阻止しなければならないと主張した。しかし、当時私は、一旦戦争が起こった以上は ...」と自己弁護に腐心することになる[13]。彼はパン・アジアを戦時中、大東亜共栄圏と同一のものとして語り、戦後の一時期、アジア・太平洋共同体論になり、再びパン・アジアに収まる[14]。大東亜共栄圏に関して鹿島は、「大東亜共栄圏の結成は、方向としては正しかったのであるが、これが軍部の独走にゆだねられたため侵略主義の過失を犯すことになり ...」、このように大東亜共栄圏は悪くなく軍部が悪かったのだと回想している[13]。
戦後公職追放に遭う。追放解除後の1953年の参院選挙で当選し、初めて国会議員になる。この当選(自由党)で3期・4期の参議院議員を務め、1959年の改選の当選(自由民主党)で5期・6期を務め、1965年の改選に当選し(自由民主党)、7期・8期を務めて1971年7月引退。
国際平和に貢献があった人物に「鹿島平和賞」を表彰するなど文化的活動でも知られる。鹿島平和研究所が明治百年記念事業として企画し発刊した『日本外交史』全38巻により文化功労者の表彰を受けた。拓殖大学名誉教授[15]、国際法学会理事、日本国際問題研究所会長、日本国際連合協会理事、経団連理事等を歴任。