鹿取義隆
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鹿取 義隆基本情報
国籍
日本
出身地高知県香美市
生年月日 (1957-03-10) 1957年3月10日(67歳)
身長
体重174 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1978年 ドラフト外
初出場1979年4月7日
最終出場1997年10月5日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


高知市立高知商業高等学校

明治大学

読売ジャイアンツ (1979 - 1989)

西武ライオンズ (1990 - 1997)

監督・コーチ歴


読売ジャイアンツ (1998 - 2000, 2002 - 2003)

茨城ゴールデンゴールズ

野球日本代表(2013 - 2015)

U-15野球日本代表(2013 - 2014, 2016, 2019 -)

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鹿取 義隆(かとり よしたか、1957年3月10日 - )は、高知県香美市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)・野球指導者。現役時代は読売ジャイアンツ西武ライオンズ中継ぎ・抑えとして活躍した。
経歴
アマチュア時代

高知商では1973年、2年の夏に背番号10の控え投手として甲子園に出場[1]。2回戦(初戦)で山倉和博を擁する東邦高に逆転勝ち、3回戦は盛岡三高を延長14回サヨナラ勝ちで降しベスト8に進出。準々決勝ではこの大会に優勝した金光興二達川光男らを擁する広島商にあたり、エース浜田良彦(近大)の足がつって、急遽救援で登板したが、達川にホームランを打たれチームも2対7で敗れた[1][2][3]。当時はプロに行けるとは思っていなかったが、広島商の野球のレベルの高さを肌で感じられたことは財産になった[3]

1974年、3年夏は高知県大会の3回戦で、杉村繁を四番打者として同年の南四国大会を制した高知高に0対2で敗れ、甲子園出場はならなかった。

高校の先輩が数名在籍していた事もあり、野球部のセレクションを受けて明治大学に進学した[1]。同期には高橋三千丈豊田誠佑がいた。1年の春から打撃投手を務め、東京六大学野球リーグでは1976年春季リーグからベンチ入りしている。監督島岡吉郎の下で毎日500球を投げ込むほどの猛練習を重ね、高橋とともに投手陣を支えた。

1977年春季リーグの早稲田大学との3回戦では、6回から高橋を救援し、道方康友(日本鋼管)と延長15回まで投げ合ってチームはサヨナラ勝ちを収めた。この試合直後に島岡監督から泣きながら投球を賞賛され、初めて島岡一族の一員になれた事を実感したという[4]。同年は日米大学野球の日本代表に初めて選ばれ、第5戦で先発している。

1学年上の江川卓を擁する法政大学などに阻まれリーグ優勝は遠かったが、1978年春季リーグでは4回戦までもつれた法政との勝負を制してついに優勝。鹿取自身も、右手中指のマメを焼き潰したと言われるほどの熱投を見せた[4]。同年の大学日本選手権は、決勝で堀田一彦中尾孝義のバッテリーを擁する専修大学完封して優勝している。前年に続いて日米大学野球の日本代表に選出され、4試合に登板したものの先発した第5戦では敗戦投手となった。リーグ通算58試合に登板して21勝14敗、防御率1.89、219奪三振の成績を残した。


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