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しかない はるお鹿内 春雄
生誕1945年(昭和20年)5月15日
日本 北海道
死没 (1988-04-16) 1988年4月16日(42歳没)
日本 神奈川県横浜市
出身校ボストン大学中退
職業実業家
配偶者頼近美津子 (アナウンサー)
子供4人
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鹿内 春雄(しかない はるお、1945年〈昭和20年〉5月15日 - 1988年〈昭和63年〉4月16日)は、日本の実業家。フジサンケイグループの初代議長であった鹿内信隆の長男であり、それを継いで2代目議長を務めた。当時の愛称も「議長」だった。 北海道夕張郡由仁町に父・信隆、母・英子の長男として生まれた。出生名は両親の名から一字ずつとった「信英(のぶひで)」で、幼少期はやや病弱だった。母・英子は祈祷師への強い信心を抱くようになり、依存する状態が長く続き、1960年12月には“春雄”と改名した。改名がどのような意図で行われたのか、信隆がどう対応したかはいまひとつ判然としない[1]。一部では父親の派手な女性関係で家庭が荒れて、父親に対する反感が強かったことと言われている[2]。春雄は小学生の時分から母子ともども祈祷を受け、祈祷師に「病の原因を体内から吸い出してもらう」のを習いとするようになった[1]。 慶應義塾幼稚舎、普通部、高校とエスカレーター式に進学したもののやがて学業成績は低迷の度を増し、1962年の2年時に落第が必至となることから中退。父親が早稲田出身、姉妹が慶應出身であるから慶應でない環境で育てたいとの親の意向があったとの証言がある[3]。 1962年?1963年頃、アメリカへ留学。この留学は名ばかりで放蕩三昧の暮らしぶりだったと言われている[2]。高校の授業も出席せず、何度も退学の危機があり、その節々に現地の高校の入学を斡旋した大学教授の経歴もある人物に頼んで退学を免れたと言われている[4]。現地の高校を卒業後は、ボストン大学に入学するも中退[5]。中退の理由は結核に罹患したと言われ、結核性関節炎のため車椅子で帰国したが、信隆は交通事故と対外的に説明していた[4]。 帰国後、1970年1月に信隆が社長を務めていたニッポン放送に入社。現場を一通り経験するために職場を頻繁に異動。
来歴・人物